脆さを知るのも、また善きかな
noteが書けない期間が続いていた。
文章を書けないというのは、私にとっては気持ちのアウトプットができないということだ。
手術を受けてから1ヶ月になる。
今思うと病気を舐めていた、と思う。
手術すればひと皮剥いたみたいに、次の日から元気になると思っていた。
かえって術後が大変だった。
身体の不快感や、体力の落ち具合、夜も眠れなかった。
人と話せば、笑顔は出る。
いつもと変わらない調子で相づちもうてるし、質問もできる。場を盛り上げることもできる。
不調を言わなければ目の前の相手は気づかないかもしれない。
だけど、私は戦っていた。
前月の自分、一年前の自分に早く戻さないと家族にも同僚にも心配をかけてしまう。
私は心配する側の人間だ、心配されるなんて許されない。
許されない?
誰に?
自分にだ。
私が私にダメ出しばかりしている。
そんな1ヶ月弱だった。
だった、と今は言える。
身体が休めって言ってるんですよ。
焦りは禁物。
ゆっくりしてね。
何百回も言ったことのある言葉だ。
「うん、ちょっとゆっくりするよ」
そう穏やかに笑う人が、ほんとうにその気持ちでいるのか。内心は焦りで気が狂いそうで、でも会話の落としどころとして、そう言うしかないのだ。
そうじゃないと、会話がすとんと終わらないから。
様式美みたいなもんだ。
そういうことを、私は初めて認識したのだ。自分事として。
昨日までの「普通」が、どうやっていたのかわからない。
自然に眠ること、笑うこと、食べること。運転すること。時間を潰すこと。
痛みや不快さを感じないで、ぼーっと過ごすこと。
何かのきっかけで、それが「がんばらないと」得られないことになるなんて、知らなかった。
いいこともあった。
昨日、息子が仕事の愚痴を言ってきた。
高齢のパートさんで、当たりが強い人がいるらしい。涙を浮かべて、怒っていた。
以前の私なら、息子のマイナスを自ら自分に反映してしまい、しんどかった。
家族全員が順調じゃないと、不安でたまらなかった。自分が順調でも、家族の誰かが不調だとしんどかった。
でも、昨日は違った。
話を聞いてる途中で、私が不安に支配されることがなかった。
息子を問い詰めたり、結論を先に私が出したりしなかった。
ただ、話を聴くことができた。
これは、いい変化だと思う。
「私だって壊れるんだ」と身をもって感じたからかもしれない。
完璧なんてない。
家族全員が順調なんて、そんなタイミングそうそうあるわきゃないんだから、
それなら、心配したってしょうがない。
目の前にあることに対処するしかないんだ。
ヒビが入ったって、
傷がぴーっと走ったって。
最悪、割れなきゃいいんだよな。
脆さがあること。
うん、善きかな。
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