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愛おしいものは失われている、もしくは失われる可能性を孕んでいる

亡くなったひとは、ビートルズグループにジョンの追悼が並ぶことに怒っていた。

とくに死亡の一報やジョンの死体の写真などを上げる人たちに対して神経がわからない、今日はただ静かに追悼するべきだ、と。

私は面白くない人たちの言動には興味ないし、それよりは興味深い発言を提供してくれる友達や愛する人たちと過ごせれば幸せなので、そんなのほっときなよ、といつも言っていたのだけれど。彼にとってジョンはそれほど愛するもので、汚すことが許されないものだったのだ。

愛するもののためにムキになったり、怒りを爆発させたり。泣き叫ぶほど求めたり。多情多恨。傍から見ると異常に思えたりもする。

私が理解できずにいると、沙織はおぼこだなあ、処女だなあ、恋とか知らなかったんだろうなあ、とあきれたように言う。

そんなことはない、と私は否定するのだけれど、なんとなく、わからなくもなくて。

私は思い通りに行かないとすぐ切り捨てる。この人の気持ちは本物じゃないなと思ったら即座に覚めて、いらなくなる。お好きにしてくださいな、と言い捨ててその存在をなかったことにする。

でも、きっと、本当にかけがえのない、大切なものは、そんなに簡単に切り捨てられないのだ。それどころか、すぐそばに寄り添っているとしても、強く想えば想うほど、失われる可能性に怯えるくらい、愛おしく悲しいものなのだ。

私にとってジョンは愛おしいもの、失われたもの、これから失われる可能性を孕んだもの、儚くて悲しいものの象徴だ。

ジョンの声を聴くたびに、ジョンが映されたものを見るたびに、締め付けられるような、泣きたくなるような気持になる。たぶん、私はジョンに恋をしているのだろう。

いつか彼に訊いたことがある。そんな恋の仕方をしていたら、苦しくはないのか。楽しいのか。恋する意味はあるのか、と。

彼は即座に、苦しむのは覚悟の上だし、苦しみを越えたら、さらに大きな幸せがあることはわかっている。そして幸せが大きいぶん、さらに大きくなった苦しみが待ってることも知っている。以前は苦しみも何も感じなかった。そんな安楽はいらない。

その時も私は涙を流したようだけれど、数年後の今もそのログを読み返していて、今の私に訴えているようで声を上げて泣いてしまった。

本当に愛おしいものは、強く愛するぶん、失われるかもしれない可能性が感じられて、苦しかったり、怖かったりするのだ。

そういえば娘を産んだあと、それまで怖いものなんか特にないと思っていたのに、この子を失ったら私は死んでしまう。この子がいることで私は世界最弱になってしまったと途方に暮れたことがあった。

子どもの頃、父が幼い私に向かって、いつも『薔薇が咲いた』を歌ってくれるのがずっと恥ずかしかったのだけれど、あるとき父が、「いつもまでも、そこに咲いてておくれ」とゆっくり歌いがら私を見て笑ったとき、人って皆いつか死ぬんだっけ、お父さんもいつかおじいさんになったら死んじゃうのかな、そんなの悲しいと静かに涙を流して父を驚かせたことがある。

そうだ、愛ってそんなものなんだ、強く愛するぶん、失われることに怖くて仕方のないほどのものなんだ、と彼は私に思い出させてくれた。

ジョンは私が物心ついたときにはもうファンと称す男に撃たれて亡くなっていた。

私がビートルズを愛し始めたころにはもう、ジョンはこの世から失われていた。

ジョンに恋したのはアルバム『Rubber Soul』のなかの『Girl』という曲なのだけれど。こんなに狂おしく、失われた少女を求める男の子は、もうこの世にはいないんだ。幾重にも重ねられた喪失に胸が締め付けられて泣いてしまった。恋に落ちたと同時に失恋したようなものだった。

この世にいないジョンを愛するというのは苦しい。失われてしまったものを求めても仕方ないのに。

それでも苦しむのを承知で、愛する。ジョンはずっとそうしてきたのだ。失われたものを、失われる可能性を孕んでいるものを恐れずに真っ直ぐ愛して求めてきたんだ。

生と死が表裏一体で、切り離せないものであるのと同じように、愛すること、悲しむこと、苦しむことは同じものであると覚悟ができたとき、私たちは永遠の端っこみたいなものを掴むことができるのかもしれない。



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