私の初語彙(はつごい)

私の語彙の源というかルーツって何。先の取材でインタビュイーの方が「僕は今では脚本家なんて名乗っているが、ある時まで本もまともに読んでこなかった」と。私も小学生の頃はわりと読書していたが、中学生以降はさっぱりだった。本から離れた理由としては、生粋の方向音痴のあまり小6で地元の街中で迷子になり、半日以上行方をくらまし、なんかそれが大ごとになって、号泣する親から早々に携帯を持たされてしまったことがやはり大きかったのかもしれない。あと実家のPCが新しくなっていろんなことを検索するようになってしまったこと。きっとあるあるなんでしょう。

それはさておき、なぜ最近っていうかここ1〜2年、当てはめたい言葉がヒュンヒュン出てくるようになったのか気になった。なんやかんや日々触れているSNSや、5年目に突入した執筆業のせいも多少はあるにせよ。例えば中学時代で言うと、「あえての漢字」「あえてのカタカナ」が大好きで「ここにこんな言葉入れちゃいました」的「これが私なりの日本語へのフェチシズムよ」感を諄いぐらいにめちゃ見せつけてくる椎名林檎というアーティストの「歌詞カード」に多大なる影響を受けたことがまずひとつ。中学時代には「歌詞」「日本語」の魅力に相当取り憑かれた。それが私史上で身に覚えのある言語への初執着であり、初めて語彙心(ごいごころ)が芽生えた時期である、たぶん。

その後はあらゆる音楽や読み物のほかに、数多の人間関係(=言語の層・濃淡・コミュニケーション内容が千差万別)に片足やらなんやらを突っ込んでいった、というのがやはりデカいとは思う。それはさておき、予備校時代に高校生の私のデッサン中の集中力を著しく奪い、私の技力向上を著しく阻んだ某先生に関しては、私は文字に惚れていたのかもしれない。当時ツイッターのアカウントが流れてきて、恐る恐る(当時から今も尚ツイッターで頻繁に長文でつぶやく人をクソダサいと思っているので、生意気にも「これ見て嫌いになったらどうしよう」なんて思っていた)覗いてみるとそこには、ひらがなで「○○○○、○○○。」みたいなトーンが並んでいて胸を撫で下ろした記憶がある。今思うと完全に彼自身によるブランディングだが。もう一度言うと私はあの先生のせいでデッサンが下手だった。

手書きの機会なんてほぼ無いこの時代では、文字の打ち方、それを相手へ「送信」したり、公のSNS等で「投稿」したり、その発表の仕方や頻度、見せ方においてのアイデンティティを各々がまあまあ確立している。LINEやメールの場合は、そこに絵文字や顔文字やスタンプ、添付データのやり取りも追加される上にスピードが速く、もうほんと考えることが多過ぎる。だから私はLINEをマジで溜めてしまう。マブな先輩の結婚式に出席した際にも、座席に置かれた私宛てのメッセージカードに「なんであんな既読遅いの?」って書かれるほどに溜めてしまう。先ほどの「日本語の見せ方」においてはさらに複雑も複雑で、たったの助詞一文字、句読点の匙加減ですらニュアンスが変わりやがるため、かなり頭を使う。というか頭を使うのはマストではない、というのも厄介だし、それらはやりとりする「相手」にもよるし、「正直者が馬鹿を見る」世の中を私は早く終わらせたいのに、悩ましいそれ(LINE)に昼夜悔しい思いをさせられています。

でも"「正直者が馬鹿を見る」世の中を私は早く終わらせたい" というのは、"正直者を撲滅したい" んじゃなく "いや正直者こそが評価される世の中であれよ" っていう意味であって、"いや正直者こそが評価される世の中であれよ、何お前らが正義みたいな顔して歩いてんの、お前らが全員間違ってんだよ" というヤンクミのまがいもの的な何かであって、"いやそもそも評価ってなんなの、誰が評価するの、いえあなたたちに評価されたくてやってるんじゃないですけど?、あなたたちのそもそもの基準をどうにかせえ、お前らが全員間違ってんだよ" っていうやっぱり結局ヤンクミみたいな思考に基づくものです。でヤンクミの後に "はよ全員自分の幸せを見つけて幸せに生きろよお前ら" って飛躍してキレてるのが私ですが。ひとつ言いたいのは、ヤンクミに恋心を寄せていたテツっていう舎弟みたいなのが、彼女のことを「お嬢!」って呼んでるのがなんか好きでした。という薄い記憶しか「ごくせん」にはありません。でもなんかふとした時に出てきた「〜だよお前ら」って構文に対して「(ヤンクミa.k.a)仲間由紀恵の声で再生されるよね〜」とか喫茶店で言ってそうな読者の方も多いと思う。知らんけど。

色々と思い返すと、自分なんも変わってないなと思うしょうもなポイント=文字に対する葛藤なんかも見えてくる。冒頭の “小学生時代は本読んでたし!!!!“ っていう話に戻ると、同世代ならアーって言うであろう「ダレン・シャン」シリーズ(イギリスのファンタジー小説が長々と訳されたやつ)をよく読んでたはずなんだけど、大事な部分に限って太字にされてて、ネタバレにもほどがあった。ページをめくって太字が視界に入ったら左手で隠して読んだり、薄目で読んでみたり、気が散ってしまい、ほんと必死で読んでいたので勘弁して欲しかった。見ないようにしていても先に太字部分の「階段を降りると、家族全員が血まみれで廊下にぶっ倒れていた!」とかいう大事な描写を先に読んでしまい、そこまで読み進めるまでがもうおもんなくなっていた。そこで<B>することで小学生を怖がらせようとするなよ、と今は思う。いや当時も思ってた。ポイントとしては、自分の欲望と戦ってはよく負けていたということではなく、シンプルに未だ注意散漫ってことが言いたい。なので、たくさんの文字や情報へ。私の前に現れるのはやめてください。云々で今に至ります。

云々って言葉が便利過ぎるのはさておき、特に答えは出なかった。でもとにかく、やだなあ(仕様とか文字の大きさとか、あと仕事でめちゃ使うので毎回ログインし直すのが大変だし、個人的なことを載せるにはなんかあまりにも読みやすすぎる)とずっと思ってたnoteにとりあえず手を出せてよかったです。

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