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ストリップ資料けんさん4−1「まいど…日本の放浪芸 一条さゆり 桐かおるの世界」(小沢昭一が訪ねた道の芸、街の芸)CD版

 まず小沢昭一とは、、。
中年以降の方はよくご存知かと思いますが、お若い方のために一言付け加えると、俳優であり、ラジオパーソナリティであり、著作家でもある多才な方で、軽妙な語り口におじちゃん、おばちゃんたちは笑ったり、時には瞳をうるわせていたものだ。
 そんな小沢昭一氏は、とりわけ放浪芸が大好きであった。1970年代、各地方に伝わる口伝芸が滅びようとしていた時、今のうちに話を聞こう、実際に見に行こう、と小型録音機を片手に各地を訪ね歩いた。その記録がレコードとして発売されたのが1971年〜1977年の間。

 今回私が起しているのはそれらがCD版として4種類発売された中の一つで、4枚組である。このCDを見つけたのは札幌にあったコアなCDショップ「キクヤ」であった。この店の品揃えは多種多様であった。新品販売であるが、最新着のものから古典芸能までジャンルを問わず、整理されて販売されていた。この店は踊り子の間でも評判で、札幌道劇に乗った踊り子は必ずと言っていい程、この店を頼りにしていた。

 前置きが長くなったがこのCD、ずばりストリップ劇場での隠し録りである(もちろん音声だけの)。そこへ小沢昭一氏がナレーションや想いを付け加えたもの。隠し録りだからこその踊り子のナマの声、楽屋風景が肌で感じられる。私が劇場デビューする約10年前の楽屋風景。私は興味津々でこのCDを買い求めた。
 小沢氏は自ら「ストリップファン」と語り、若かりし頃はある踊り子にいれあげていたこともある程だ。そんなファンであるからこそ、当時の状況そのままを記録し、氏はのちに「これこそ放浪芸の原点でこの記録は保存しておかねばならぬ」と感じたと語っている。

 このタイトルにある初代一条さゆり(現在2代目がいるのでこう呼ばれている)嬢と桐かおる嬢。1970年代のストリップ界のスターである。初代一条さゆり嬢は迫真の演技で蝋燭ベットをやり、秘所から涙が光るところを見せ、観客たちから「観音様」「菩薩様」と崇拝されていた。桐かおる嬢はレスビアンショーの先駆者である。しかしこの70年代は、ストリップ劇場において革命が起き出している頃であった。もう観せるだけの演目ではダメで、天狗ベット、そして本番白黒ショーへと移行していく最中である。

 1枚目。小沢氏によるストリップ劇場解説があり、氏がストリップショーにおける愛着を語っている。それに続き、桐かおる嬢の楽屋訪問。大阪、堺ミュージックの大部屋。壁一枚で舞台と繋がっているのだろう。ステージ音楽がガンガンに聞こえ、様々な演目の踊り子たち、外人もいる。踊り子の飼い犬の鳴き声、赤ちゃんの鳴き声。そう、昔は楽屋で子供を育てるのは普通であった。母親が出番の時は周りの踊り子が子供を見る。

 本番白黒のお兄さんが「勃ちが悪い」と相談。桐氏「はちみつに玉子やったらどう?」「いや、ダメでした」「そうか。やっぱあれは犬にしか効かんのかの。犬はそれやったら一発で勃ちよるんやけどな」
 私感(そっか。もう獣姦ショーがあった時代ですね。犬やポニーが使われていたそうです。1日4回は動物にとってキツイだろうな)
 お兄さん「なんとか色々やって勃つんやけど、入れよう思ったらシュンとなってしまう。しまいにはお客に笑われてしまって、、」

 舞台から「イヤー!キャー!」と叫び声が聞こえる。これは残酷ショーだろう。桐氏「この後に出るんやから、圧倒されるんよ」
出番から帰ってきて桐氏即座にダメ出し。
桐「お前足上げる所あろうが、何やポーズつけることないんよ。足ピヤーと上げよるやろ、パーとこうして」
相手春日トミ「そう、足つるんよ」
桐「何しとんの。そんな。わしらバレエしとるんやないんやからな。セックスしよんのやからね。おかしいよ」
私感(いやー、この言葉ポーズベットが唯一と思っている踊り子に聞かせたい。ベットは新体操じゃありません)

 踊り子の犬が妙に発情している。
「何?今コシコシしたいの?今?」犬「ワン!」「だめ。コシコシは夜でしょ。今はだめ」犬ハフハフ息遣い。「センズリしたい?センズリ」犬「ワンワンワン!!」

 いやー、1枚目だけでもお腹いっぱい。私が書いた以外にももちろんいろんな会話が飛び交っている。私のデビューした1980年代半ばでも楽屋の中は何でもありだった。花札(パッチン)で賭けをする踊り子、一升瓶がおいてある踊り子、ゲーム機の賭博にハマっている踊り子、子供連れ、ペット連れ。流石にヒモさんは楽屋にいなかったが、それらしきヒトと電話(公衆電話)で話している姿は通常であった。でもそれも今となっては懐かしい。

 2枚目。これは初代一条さゆりの特別興行「木更津別世界劇場」を訪れた小沢氏。
 さゆり嬢は引退興行の際、警察から摘発された。1972年(昭和47年)12月のこと。この時に懲役1ヶ月の判決であったが、これまでに執行猶予中であったために6ヶ月間和歌山刑務所に服役した。出所後は完全に踊り子をやめ、一般職でアルバイトをしていたが、自分の店を持つようになる。しかしママ業もなかなか上手くいかず、資金面が苦しかった。そんな時桐かおる嬢から、脱がなくて良いから自分の劇場に出ないかと誘われた。1976年(昭和51年)1月である(この時木更津別世界は桐氏がママであった。昔は踊り子がある程度の年齢になるとママになる道があった。またママになることがステイタスであった)。
 さゆり嬢は藁をもつかむ思いで、この温かい言葉に甘んじた。有り難かった。助けてもらったという想いが強い。しかし一方では脱がなくて申し訳ないとも思っていたが、皆に迷惑がかかるので、絶対に脱げないと決意して劇場に乗った。
 楽屋訪問した小沢氏は必死にさゆり嬢を励ます。パンツ(下着)履いてるのが見えたらお客さんが幻滅するんじゃないか、でも、履いてないと思われたら、検挙されるし、、と間に悩むさゆり嬢に「いっそパンツ見せた方がいいんじゃないですか。どうせ(警察は)きてるんだから。皆んなだってわかってますよ」とアドバイス。「むしろパンティが濡れているのを見せた方が、、」なんてことも言ってます。
 さゆり嬢は「ステージに出るのが怖い。楽屋をトントンされるのが怖い」と心が休まらない様子。「履いていても、いつ来るか」とビクビクしている。「好きなお酒も1滴も飲んでません」と。そんなさゆり嬢を元気づけるため、急遽ステージに出て司会をやる。

 「エー、私も皆様と同じ、一条さゆりが大好きで、、、」と司会し、サイン色紙も書き「あゆみの箱」へ協力する。
 当時「あゆみの箱」というのが社会福祉に役立つ一般人の、唯一の手段であった。またストリップ劇場にもこの箱が設置されていた。本当に団体へ寄付していたどうかは定かではないが、この木更津別世界はきちんとしていた。さゆり嬢は色紙を書き、この箱への寄付を募っていたのだ。
 冒頭の司会をしてステージをさゆり嬢へ渡し、楽屋へ退く小沢氏。
「楽屋で待つのはちょいとヒモの気分」と語っている。
 楽屋へ帰ってきたさゆり嬢。すごく楽しそうだ。「センセ、やっぱり違いますね。みんなワッとなって。またやりましょ。いいわ!」
 そして台所では「お母さん」が粕汁を作っていた。
「センセ、一緒に食べませんか。粕汁」「お勝手で?」「やっぱりここ(楽屋)で食べましょう」小沢氏は隠し録音機を鞄に入れていたので、お勝手に行くのを渋っていたのだ。
 この「お母さん」は桐かおる嬢の実の母であった。桐氏は家族たちも養う立場となっていた。さゆり嬢は「ここの従業員も皆、おとなしくていいでしょ。やっぱりお母さんがいるからね」と秩序の正しさを再三言っている。
 余談だが「粕汁」。踊り子さん、なぜか粕汁作る人多かった。関西の人が多かったからかな?関東ではあまり馴染みがないものなので、私は口にしたことが無かった(今では食べますけど)。楽屋メシで印象深いのは粕汁。酒飲みの踊り子さんは大抵作っていたイメージがある。

 小沢氏と一緒に食事をしたさゆり嬢、心が開いたか男の話となる。
「私、惚れっぽいの。すぐ信用しちゃう。だからダメなんよ。男で苦しんだら終わりですよ」自分ではわかっていても「癖」は直らないですからね。
「私ね、舞台が好き、踊りが好きなんですよ。だから(劇場を)捨てきれないのね。でも、これからは自分の店を守るため本気になってやっていきますよ」
さゆり嬢のこの言葉、心に突き刺さる。

 あとCD2枚あるが、これは次回としよう
小沢昭一氏がこの音源を残してくれたことに本当に感謝する。
ストリップ劇場の歴史を検証するのにとても役立ってくれた。
続く

 

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