倶楽部サピオセクシャル日記86:ぼくらはなぜ言葉にするのか? 今夜は言語化の可能性と限界について語り合ってみる
こんばんは、つよぽんです。
先週7月23日のサピオセクシャル部屋の報告です。
タイトルは、「ぼくらはなぜ言葉にするのか?今夜は言語化の可能性と限界について語り合ってみる」。
早いもので一週間が経ってしまった。
うまく話せるようになるために自分の話しているところを撮影した動画を見るようにしている、という方がいた。
僕も同様に、自分の話している動画をYou Tubeで配信したらだいたいチェックします。
自分がどんな話し方をしているかをチェックします。説明の仕方はどうか、声の大きさはどうか。
その後、よしひこさんから「つよぽんのロールモデルは誰ですか?」と質問されたので、話し方に関しては、評論家の荻上チキさん、文章については、『空中ブランコ』で直木賞を受賞した奥田英朗さんの文章に憧れていると答えた。
そして、言語化を過信してはいけない、という話も出た。
そうなのである。
文章には力がある。
でも、それは一定程度の力であり、無敵ではない。
参加者のなかには、もし自分の思っていることが70あるとしたら、そのうちの2しか自分は言えていない。
そして、相手に言いくるめられることも多く、自身にふがいなさを感じることも多い、と言う。
ファクト(fact=事実)とトゥルース(truth=真実)の話にもなった。
例えば「この本は220ページです」というのはファクト。
「この本は人生の機微を教えてくれる本です」というのはトゥルース。
僕自身の頭の整理のためにもう少し詳しく書くと、truthは、本当だと信じていることで、個人的、主観的な真実を表します。
たとえば、「楽しい時間は早く過ぎる」「神は存在する」など人によって異なるものです。
一方、factは、例えば、1時間は60分、など科学的に証明された客観的な事実を表します。
事実は一つだが、真実はたくさんある。
真実には主観が入るので、そこにはストーリーが生まれる。
大事なことは、きちんと事実を捉えて、それを自分なりに解釈をし、自分なりの真実を作ること。
自分なりの哲学や自分なりの真実を持つことが大事。
そのためには、自分のあたまで考えて、自分の言葉に置き換える作業が有効です。
それこそが、ぼくらが言語化することの意味なのではないか、というのが僕の今回の回の結論です。
【お知らせ】
よしひこさんとつよぽんで作っているYou Tube。
「元気が出るおっさんTV」
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慇懃無礼な人は好きじゃない
https://m.youtube.com/watch?v=KRp1ZYZb7wM&t=695s
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