(2011)複製芸術時代の首都掌握計画──映画『ワルキューレ』評

 総統を殺らねばドイツは滅びる! 祖国への愛より苦渋の選択を迫られたシュタウフェンベルク大佐が主導する、ヒトラー爆殺、そして混乱に乗じた軍隊蜂起→首都掌握の「ワルキューレ」計画。しかしヒトラーは爆発の現場を生き延びてクーデターは兵を挙げぬままに鎮圧、憂国の志士らは志半ばにして刑場の露と散り、ナチス・ドイツは狂気の路へ。結論──ああ歴史って皮肉。 

 ……これが、あの面白かった『ユージュアル・サスペクツ』の監督の作かと疑うほど、素直な史実再現風味映画ではなかろうか。こんな素直な映画であるはずがない、と誰しも思わなかろうか。 

 そこで、こう考えてみよう。ヒトラーは爆死したのである。ヒトラーは死んでいない、という情報は、クーデターを蜂起させないために、総統亡き党本部に残されたゲッベルスらが仕掛けたハッタリである。 

  ヒトラー爆死の衝撃に沸き返る党本部で、ゲッベルスは自分の逮捕を告げる反逆者シュタウフェンベルク大佐からの伝令を、青酸カリを口に含んで迎える。そして手にした受話器を伝令に差し出すと、おもむろに声だけのヒトラーが電話線の向こうから、逆にシュタウフェンベルク大佐らの拘束を命じるのである。

    しかし、爆発の後、ヒトラーは一度も画面に姿を現さない。 そして、ヒトラーが本当に存命なら、ゲッベルスが服毒自殺の準備なんかするシーンは必要ない。  なによりも、受話器から総統の声が流れる短いシーンに込められた異様な緊迫感が、逆にこのシーンに潜む虚構性を示している。人はフィクションと手を組まねば、物凄くなることはできない。『ユージュアル・サスペクツ』で描かれたのも、その「フィクションの物凄さ」だった。  

 「ワルキューレ計画」は、ある意味ではちゃんと成功したのである。ちゃんとヒトラーを吹っ飛ばした。しかし、その後の情報戦で失敗した。主人公のナントカ大佐よりゲッベルスが上手だった。首都に配置された軍隊に、ヒトラーは死んだと信じさせれば大佐の勝ち、生きていると思わせればゲッベルスの勝ちである。ところで、大佐にとって重要なのは、ヒトラーの「現実的な生死」である。爆発成功の後の情報合戦において大佐を支えたのは「爆発をこの眼で見た」という一事、いうなれば「一回限りのアウラ」だった。  

     一方ゲッベルスにとって大事なのは、事の真贋ではなかった。彼はフィクションに賭けた。折しも「複製技術の時代」である。もし大佐に、ヒトラーが生きていようと死んでいようと「ヒトラーは死んだ」と言い切る神経があれば、「ワルキューレ計画」は完成したのだ、というのが、監督ブライアン・シンガーの、密かな主張ではないだろうか。  

     情報戦を司るのは通信室の女子従業員たちである。「ワルキューレ」とは北欧神話で「戦死者を選ぶ乙女」という意味らしいが、通信室の女子従業員たちこそ、この映画のワルキューレなのではないだろうか。 

  冒頭の「これは史実に基づく物語である」というテロップは、1944年にドイツ国防軍将校によって実際に起きた事件に題材を探すという意味では、決して嘘を述べていない。しかし、史実が売りだということをたんに曝す以上の含みを持ち、観客のミスリードに一役買っている。 

   この映画は、「ワルキューレ計画」がなぜヒトラーを殺すことに成功しなかったのか、全然描いていない。しかし、そんなものは描いてなくて当然である。だってこの映画の「虚構の真実」においては、「ワルキューレ計画」はヒトラーを殺すことに成功しちゃったんだから。 

  この映画は、「ヒトラーを殺すことに成功したのになぜ首都掌握に失敗したのか」という問いをもって「ワルキューレ計画」を描き出す。描き方は素直というかなんというかストレートすぎて何だが、実はその問いは、前提からして結構いかれている。『ユージュアル・サスペクツ』からラスト10分のネタバレシーンを抜いて、謎解きを観客に丸投げしたら、こんな映画になるであろう。実はすごく面白い映画なのではなかろうか。 

  副題を付けるなら「珍説! ヒトラーはもう死んでいる?!」とかなんとか。

参考:『ワルキューレ』2008 (B. シンガー, 米)
   ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(1935)

初出:『メインストリーム』01(2011)

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