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『うしろめたさの人類学』を読んで〜大阪でのフィールドワーク〜

大阪に越してきて、人助けの機会が増えた

 大阪に来てから、道端でお年寄りや子供を手助けする場面がなぜか増えた。
 横断歩道で転んで起き上がるのに苦労しているお爺さん、夕方の商店街で迷子になって泣いていた男の子、自転車に荷物を積み過ぎて動けなくなったおばあちゃん…真夏に公園の地面で倒れているおじさん(ホームレスの方だった)がいて、警察を呼んだこともある。

 なぜだろう。単に一人黙って街を歩いているとひとりで困っている人に目が行きやすいのかもしれない。また私自身、実家を出て大阪で働くようになり、それまでの生活や環境、今まで当たり前だった"意識"から離れたことも要因だと思う。
いや、意識が変わったと言うより、無意識だったものに気付いたというのが正しい。社会人として独立したゆえ、見える世界が広がっただけかも。

 それにしても大阪の人や街はどこか、常に互いに意識を向け、上手に間合いを取りながら生活している感じがする。ドライな面が結構あるが、急に距離を縮めてくるような人懐っこさが面白い。
2年間住んで、私も徐々にその感覚に慣れてきた。

 例えば、迷子の手を引き親を探していたら、商店街の向こうからおじさんがチャリを飛ばして
「さっきあっちでお母さんが探しとったで‼︎」
と言い残し去っていく。(去るんかい、と思ったが、お母さんの方に逆戻りし息子の安否を伝えに走ってくれていた)
 また暫くして、部活帰りの中学生が
「〇〇ちゃん、はぐれちゃったん?」
と声を掛けて途中まで付き添ってくれる。
泣いている子どもと少し焦っている私を見て、迷子だと気付ける観察眼、実際に手は出さんけど見守ってるで、何かあったら言いや?という適当さと安心感。

…ここは昭和なのか?!と勝手な昭和像に想いを馳せつつ、ともかく何だかんだ事件が起こると、わらわらと人が集まり、しかも各々があらゆる角度からしゃべりかける。老若男女問わず、あーでもないこーでもないと言い合い、怖そうな兄ちゃんはお爺さんを助け起こしてくれる。

感情から出る素直な言葉


 単に街で起こるハプニングに興味があるだけかも知れないし、実際見ているイメージとしては、親切心や正義感というよりも、その状況を目にすると咄嗟に声を掛けちゃう、という感じがする。

 これが大阪人の気質なのかは、当事者ではないため分からないが、というよりあくまで私の身の回りでの体験でしかないので"大阪人"と括るのは正しくないな。自分の感覚としては、例えばレストランで良いサービスを受けたり、料理に感動したとき、帰り際に店員さんに(勇気を振り絞って)
「美味しかったです…また来ます…」
と、つい声を掛けたくなる時のような感じ。
感情から湧き出る素直な言葉、というか。

タクシーを待つおばあさん


先日実家に戻り、最寄りの駅へ向かう途中、杖を持ったおばあさんが転んだのを、通りがかりの人が助け起こす場面に遭遇した。おばあさんは会話も出来ていて、助けた方も挨拶して去って行ったのだが、しばらくしてもおばあさんはその場から動かず、きょろきょろあたりを見回している。

私は携帯を見るフリをしておばあさんの様子を遠くから見ていたが、仕方ないので近寄り、さっきは大丈夫でしたか、と声をかけた。

彼女は足が悪く、タクシーを待っているが、今いる場所より少し手前の交差点でほとんどが左折してしまい、中々気付いて貰えないのだという。

その交差点まで一緒に歩けますか?と聞くと、杖があるから1人で大丈夫と断られる。(なんでよ)

ここで私は、何故か急に大阪マインドが発動し、
「そんなこと言わんとってカバン持ったげるわ」
などと、今思えば大変馴れなれしい言葉を掛けた。(言葉を発してから我に返った)
暫く、手伝う大丈夫だと互いに攻防を続けたが、おばあさんはこれ以上歩くのが厳しそうだった為、考えた末に私が交差点まで行ってタクシーを捕まえる事にした。

エゴイズムじゃないのか(シベリア食べつつ)


 タクシーを1人待つ間は、もう全然車来ないし、信号長いし、次の予定の時間も少し気になり、声を掛けた自分の責任をひしと感じつつ、なんだか私まで心細くなって、タクシーアプリを入れとけば良かったななんて思ったりした。けれど同時に、あのおばあちゃんは、普段から似たような困難に沢山会っているのだなとか、最初に転んでいたのを見ていなければ、ただ立っているだけの、実は困っている彼女に気付けなかっただろうなと思った。

何とかタクシーを捕まえた後は、何だか自分の行動が恥ずかしくなり、おばあちゃんに遠くから手振りでタクシー来たことを伝えて、逃げるようにその場を去った。
 おばあさんにありがとうを言われるのが恥ずかしかったのだ。今私がしたことは、自分のエゴイズムで、声をかける、かけないの判断も、全部私の手中にあるところが情けなかった。その後地下鉄に乗った時だって、席を譲るべきタイミングでそれを決めるのは自分であるし、もし誰かから譲れと言われたらそれはそれでなんだか嫌な気持ちになったりもしそう。何なんだ、この後ろめたさは。思うままに、行動しただけなのに、色んな感情が湧き出てくる。

 大阪のおばちゃんの時はもっとシンプルだった。誰かに助けて欲しいとき、彼女たちは人に話しかけたり、大きな声で
「こまったわ〜あ〜どうしよう、困ったなあ〜」と、あくまで独り言風に全力でアピールする。
だからこちらも、
「全く何しとるの、仕方ないなあヤレヤレ」
といった感じで手を貸したり、人が集まってくる。まあ、全部声に出して助けを呼ぶのはあのおばちゃんが初めてだったが、こちらも気負わず手を出せる。

 県民性の違いを言いたいのではないが、何だろう、「後ろめたさ」に蓋をせず、お互いが手を貸し借りできる雰囲気があるといいよなあと思う。

…話がまとまらないので、この辺りでまた、
本の続きを読むこととする。(3月5日)

 先ほど、本を全部読み終えた。
国家と市場と社会のからまりが少しだけ分かったような気がする。前述したような、私が最近モヤモヤを感じていたことも間違っていなくて、その感情をその都度見つめて、行動すればよいのだと思った。

 また、国や市場経済がつくる制度や仕組みの脆さと、その中で生きる自分自身の生活に対する無責任さを自覚した。
 身近なところで言うと会社とか、学校とかもそう。自ら選んだはずの場所であっても、仕組みや制度を受け入れ染まる必要はない。あくまで自分は自分。組織の中だからとか、普通はこうだから、などと思考停止したり、がんじがらめにならないでもいい。あとは、自分の行動の先に何があるか、何のために働くのかを忘れないこと。

 最後に、まとめとしてはお粗末で、当たり前かも知れないが、自分はやりたい事を、感情が動いたらそのまま、(国民ゆえ公共の福祉は守るか)素直に行動して良いんだと思えるようになってきた。(3月11日)

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