コレコレの暴露はなんで面白いか

ここから書く全ての基礎は、まず人間は基本的に世界がわからないという前提から始まる。人間は、善悪を区別してくれる力のある人を求めている。その善悪通りに生きれば、人から批判されずに済むし、自分が正しいという鎧を着ることができるから。「どう生きるべきか」とか「生きる意味は何か」とか人が考えるのは、本質的に世界がわからないから、誰かに教えてもらいたいのだ。その教えてくれる人を、人間は神様と呼んで崇めてきた。

しかしコレコレの配信は、ただコレコレという神様から善悪の基準を与えられる受動的なものではなく、能動的で模倣的なインタラクティブなフローが挟まることによって、自己の有能感や思考の昇華の役割を果たす。というのも、視聴者はコレコレの配信を鵜呑みにせず、ある程度自分で考える自由が与えられる。それで能動的に、自分なりに善悪の基準を考えているように錯覚する。そして、「俺の意見に反対の人凸待ち」コーナーが挟まることによって、模倣的にインタラクティブな議論を行っているかのように錯覚する。色んな人の意見を参考にしながら、最終的な結論を出すのは自分であるため、自己の有能感や思考の昇華が果たされ、気分が良くなる。しかしそれは、コメント欄やコレコレの価値観に大きく左右されるし、配信の中という狭い世界の文脈に大きく依存する。世界もっと大きな文脈でできていて、コレコレの配信を見ていないような層の意見はコレコレの配信に反映されないのだが、「色んな人の意見を参考に自分で考えて辿り着いた結論」であると錯覚することができるのは、まるでよくできた仮想のコンピュータゲームの世界のようだ。コレリスは、VRゴーグルを被っている。

この前の配信は、「割り込みは悪い」とかいうくだらない話を永遠としていたのだが、まず「悪い」「良い」と「悪い人が謝罪する」が全ての終着点だと考えている時点で、僕たちが人生で本当に求めていることを理解していない。まず、社会全体として、割り込みをする人は減るべきだという文脈は正しいのだが、それを基礎とする最初の人間の感情は、「割り込みをする人が社会から減って、秩序だった社会であって欲しい」という感情から成り立つのだが、それを誰も言ってない。そういったポジティブで生産的で人間を良い方向に向かわせるための感情が、いつの間にか、「割り込みをする人は裁かれるべきで、謝罪するべきだ」というネガティブで非生産的な人間を悪い方向に向かわせる感情にすり変わっている。というのも、何故か人間というのは、平和を願う慈愛の心よりも、人を裁くという冷酷で攻撃的な感情の方が強い生き物なので、インターネットでインプレッションを稼ごうとすると、その感情を喚起、正当化されるような仕組みを取り入れることになる。Twitterがどんどん攻撃的なツイートが多く表示されるメディアになっていってるのは、そのせいである。

僕がコレコレの配信を見ている人に伝えたいのは、「一番最初、僕達はどんな世界を望んでいたんだっけ?」ということ。もう1つは、今のSNSは、最初に僕たちが望んでいた世界を実現するための場所ではないということ。SNSは、ポジティブな感情より、ネガティブな感情の方に重きを置いてしまう人間の自動的な反応を肯定して、そこに居場所をつくり、社会的な繋がりをつくっている、道を踏み外した世界であること。そういった人間の動物性を意志の力によって変えていけると示すのが神話であり、今のアニメや映画がそれを間接的に伝えようとしていることもある。もっとわかりやすく言うと、僕たちは本来、ネットで議論するよりも、友達と飲みに行って遊んだり、恋人とデートをしたり、何かを学び、人間的に成長したいと思うものだ。コレコレの配信を見た後に、僕たちはどんな気持ちになっていて、何を得たのか、じっくり考えてみることが大切だ。それでもなお「これが僕が人生でやりたいことだ」と胸を張って言えるのであれば、僕はそれで「良い」と言いたい。俺はちゃんと人生でやりたいことをやりつつ、その息抜きの暇つぶしとして見ているんだ、と言うかもしれないが、暇つぶしでネガティブな気持ちになるのは、人間の動物性そのものだ。


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