感情がコントロールできないのなら何故自分を生きてると言えるのか

僕は自分をマリオだと思う。
この世界はゲームで、外に僕を操るプレイヤーがいる。
もちろん僕にも人格はある。クッパに攫われたピーチ姫を救い出して、言えなかった思いを伝える。これが僕の人生のやりたい事だ。
きっとこれを達成する事が生まれてきた意味であり、達成出来たのなら死も受け入れられそうだ。

でもそれをするには危ない道を走らなきゃいけないらしい。敵もいて、怪我をするかも。叶えられなきゃ周りからはバカだと言われるだろう。
それにこの目標を目指してるはずなのに、違う所で楽しさや喜びを感じてしまう。
コインが欲しいし、早くゴールまで辿り着きたい。
世の中ではそっちの方が凄いと言われる。
きっと人気になる。
ピーチ姫に思いを伝えたかったはずなのに、喜びの感情はそこじゃないところからも多く湧き出る。
きっと僕を操るプレイヤーのせいだろう。
僕は僕だが、感情は僕のものではないらしい。
楽しかった、悲しいと感じる、好きになれない、吐き気がする。
僕が体感しているはずなのに、受け取れる感情は何故か他人行儀だ。
全ての行動の起点になる感情が僕のものではないのなら僕はどうして僕を生きてると言えるだろうか。
だから僕は自分をゲームのマリオだと思う。
体は僕で人格もあるが、どこか僕じゃない僕の部分がある。この外のプレイヤーは誰なのだろうか。願わくば気の合うやつであれば、もう少し人生楽しめそうだ。
この期待も外のやつに期待しよう。

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