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理不尽に耐えなくても生き抜ける社会

「俺たちの時代だったらそんなのはありえなかったよ」
「今はそういう時代じゃないからなぁ」
「時代は変わったんだなぁ」

とドヤ顔で僕に言ってきた人たちは、結局のところ何が言いたかったのか?

・いきなり昔の話をしてきて、なんだこいつらは?
・お前らの時代の話なんて知らねえよ

などと言いたくなるところだが(いつもは心の中で言っているが)、一旦落ち着いて、冷静に考えてみる。

可能性をいくつか挙げてみる。

①中島みゆき

そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから 今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう

中島みゆき「時代」

(辛い時代を、「いつか笑って話せる日が来る」と思って耐え忍んできた。そして今こそが待ちに待ったその日なんだ!)
→「俺たちの時代だったらそんなのはありえなかったよ笑笑」

そんなわけがない。ならあのドヤ顔はなんだ?
「笑って話せるわ」は「薄汚いドヤ顔で年下に不快な思いをさせること」を意味してはいないだろう。

もっと「くよくよ」していてくれ。

②お前も不幸を味わえ

いかにもありそうだ。同じ苦しみを味わえ。
「他人の不幸は蜜の味」というが、同じ釜の不幸は蜜どころかホッピングシャワーである(?)。

ただ、彼らは悪意だけでそういう態度をとっているとは思えない。大体、人間というものは、そう簡単に他者に対して純粋な悪意を向けられるものではない。多分。

③「理解ある」俺たち

やっぱりこれじゃないかな。彼らの意見は主に二つ:

・俺たちは時代の流れを理解している
・でも、本当は前の方が良かった

この二つは明らかに矛盾している。

本当に時代の流れを「理解」しているのなら、「前の方が良かった」などと思わないだろう。ここで真に求められている理解とは「わかっているふりをして同調すること」ではない。価値観の変容が迫られているのである。

彼らは価値観の変容という苦しみを回避しておきながら、時代の理解者という都合良いポジションに立とうとしている。

以上を踏まえて

偉そうに指摘してきたが、どうしても考えねばならないことがある。
それは、「自分もいつか上の世代になる」ということ。

おそらく、彼らは若い頃、生き抜くために必死になって社会に適応した。理不尽に枕を濡らした夜もあっただろう。そしてようやく価値観を内面化したと思った頃に、「もうそんな時代じゃないよ」と冷や水を浴びせられたのである。

そんな彼らが、若かりしころ必死に適応しようとした「あるべき姿」に固執するのも無理はない。僕も同じ立場だったらそうしてしまうかもしれない。

では僕には何ができるか?

ひとまず「時代」の価値観を相対化することである。

時代の価値観を盲目的に絶対視するからこんなことになるのだ。常に他の価値観の可能性を想像できるなら、「時代」の価値観が変わっても「ふーんそうなのね」で終わりだ。

でもそれは口で言うほど簡単ではない。

それは、「社会を生き抜くための理不尽」に耐えるための強力な方法が「時代の価値観を盲目的に絶対視する」ことだからである。逆に、「常に他の価値観の可能性を想像できる」人が、理不尽に耐えられるだろうか?盲目的な絶対視という思考停止が、人の心を理不尽から守る。

じゃあどうすればいいのか?

これはもう、「理不尽に耐えなくても生き抜ける社会」を作るしかないだろう。誰が好き好んで理不尽に耐えるのか。最初から理不尽が必要ないなら、わざわざ謎のハードモード価値観を内面化する必要もない。
(逆に言えば、今の社会は「ある程度の理不尽に耐えられる人だけが生きて良いシステム」になっているのでは?そのような必然性からの解放が想像力を育むんじゃないのか?)

そのための具体的方法は僕にはわからない。でも、こんなに科学技術が進歩しているのにできないはずがないと思う。デヴィッド・グレーバー「万物の黎明」を読む限り、初期人類は我々現代人より社会のあり方に関する想像力に富んでいたようである。ならば、問題は我々の想像力である。

だから、これから「俺たちの時代だったらそんなのはありえなかったよ」と言われる機会があったら、「万物の黎明」を投げつけて逃げよう。

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