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「倒れたままの墓石」日記|小野寺

先日福島に訪れたとき、山奥の墓地で倒れたままの墓石をいくつも目にした。倒れた黒曜石の一つ、佐藤さんの行書体に砂が溜まっていた。
震災の記念館で観た映像で、父を震災でなくした子供が成人し、消防士になったという実話を知った。

癒えない傷とともに歩む人に敬意を払って、尊重したい。
私はものを知らないから、人生は自分で切り拓くもの、と断言して生きてきた。そうじゃない。そうじゃないよ。言葉だけ聞くと間違いじゃないけれど、人生はそんなに簡単なものじゃない、と情けなくなった。そういうことを、現地に来るまで察することもできない。想像力の足りない自分が恐ろしくて、翌日から新聞をとるようになった。

私は「多くのものを知り、愛をもって相手に合わせた引き出しでコミュニケーションをとれるのが豊かな人間の条件」だと思って、ちっとも足りない自分のチューニングを必死でやろうとしている。けれど、多くのものを知るって、知れる環境がたまたまあったからだ。知識なんて砂になる。ではいらないかと言うと、ちっともそんなことないから人生は簡単に言語化できない。
父は福島の相馬で生まれて、今は関東で働いたり酒を飲んだりしている。新卒の頃出会った同期の男の子は福島出身で、祖父母が仮設住宅に住んでいると話していた。いつか帰って、福島のためにできることをしたい、と。

歳を重ねた人がどうしてあんなに、他者に対する感謝と敬意ばかり説いてくるのか。学生時代はなんとなく分かった顔をして、ちっともピンときちゃいなかった。今なら少しは考えられる。身一つ残されたぐちゃぐちゃの世界の中でも、心を温める火薬になりうるからだ。すべての物事、どうもありがとうございます。こういう言葉を詭弁だと思われないようにするのは、自分の姿勢次第である。できることを探して動こう。頭と身体をちゃんと使おう。誰かや何かに向ける言葉がないのだけれど、心が熱く湿って、何かしなくちゃという衝動だけが今、ある。

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