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「意味わからんちん」日記|小野寺

便利に使われることと愛されていることは時に似ている。し、優秀なことと人に囲まれていることと多くの愛を受け取っていることはすべて別の話だから、勘違いしないように生きていきたい。

平成生まれの私の学生時代には「自分を褒めてあげよう」みたいな風潮はなくて、慎ましく生きていきましょう、と教えられてきた昭和の親から育てられたので、褒められることなんてなかった。
自我がすっかり形成された頃、母から「あんたは偉いと思う、でもそんなことを直接伝えたり周りに吹聴するのはアホのすることやから私はせえへん」と繰り返し言われるようになったけれど、「ああそうですかありがとね」てなもんである。生育環境になんの不満もない。アラサーになった今、上から下よりも下から上を見るほうが見通しが良いと分かったので、私を上げずに育ててくれてどうもありがとう、と嫌味ではなく母に思う。

最近の子育てはどうなのだろう。情報が増えて優秀な技術を持った人が増えた。活躍している人をメディアで見る時、生年月日から逆算して「うわ年下かよ」と思うことばかりである。かしこく優しく平和的な年下の友人が周りにいるので、よかったなとも思う。

人には役割がある。優秀ではない私は、天狗にならないフラットな愛や人情を貫く役目を、全うしようかと本気で思っている。とあるコンテンツで、公式が新規描き下ろし絵を公開したとたん「AI絵師が描いたのではないか」と炎上した。そりゃそうだ。同じ目線で人の気持ちを考えるって、そんなに難しいことかい。考えがずれていたとしても、同じ目線に立とうとする心意気が伝わらないほど、人はアホではないだろう。
私はそう思うけど、そう思うから、ちゃんとずっと、愛や人情を抱えて、自分で自分を褒めたりしない。本当にスゴいなら誰かが褒めるだろう。「褒めてもらうために自己発信しなきゃ」という風潮、「伝えるために発信していく」と言い換えられて世に蔓延っているけれど、あんまり好きじゃない。ビジネスには必要だから、黙っているけれど。
綺麗に伝えられなきゃ受け取れないのは、意味わからんちん。受け取り手の頭をへなちょこにしていくこともあるから、宣伝ってリスキー。それでも発信したいならすればよくて、そうしたいから、ひっそりと今、これを書いてる。


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