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マトリックスを超えて

『1984』と現実

日々流されてくるニュースを見て、私たちはもうオーウェルの『1984』の世界にいるんだと感じる人はどれくらいいるだろうか?

あの歴史的なディストピア小説で描かれていること、「マスメディアが事実のかけらもないニュースを流しつづける」というのは、オーウェルがスペイン内戦に従軍して目の当たりにした80年も前からの現実だ。

そう、今、おこっていること・・・、目に見えないもの、私たちの五感がまったく感知しないものについてでも、情報の洪水を浴びせて日常的にいのちの危機を煽ると、人は思考力を奪われ、権威の言いなりになる。

2011年の原発事故の後、「被曝によって5年後から子どもの甲状腺癌が激増する」と多くの人が言ってた。あの時、放射能の危険性を訴えた専門家たちは今どうしているんだろう?10年以上たって、誰もその結果を検証しようとしないのは不思議だ。その昔、原爆が落ちた広島・長崎には100年は人が住めなくなると言われたし、ひとたび原発のメルトダウンが起れば地球の裏側まで穴があくという話しは、チャイナ・シンドロームと呼ばれた。

その一方で、「原発なしでは、経済発展は不可能だ」と言う言葉も今ではすっかり聞かなくなった。バブル崩壊から30年にわたって日本経済は停滞し続けてきたが、そのうち直近の10年は、ほとんどの原発が動かなかったから経済がさらに悪化したのだとは誰も言わない。過剰な発電力があって、省エネも進んだために、原発が動かなくても、なんの不自由もなかった。そもそも、水を沸騰させてタービンまわすのにどうして核分裂の高熱使うのか?原料代が安く設定されているから効率がいいとか、ヘリクツとしかいえない。

よろず対立構造は、本当に大事なことから目をそらして現状を固定化するためにつくられる。そのために賛成・反対両方のプロパガンダが垂れ流され、無用な対立が演出される。そんなことにさえ気づかず、つくられた土俵に乗っかって、ただ騒ぎたてる人がいまだにいる。

人は毎年およそ100人に1人が死ぬというのは、単純な自然現象だ。そもそも世界では毎年7000万人もの人が死んでいるということだが、結局、今回の騒動でその数に変化はあったろうか?日本人は、4人のうち3人が75歳を超えてから、ほとんどが何らかの病気をきっかけになくなる。本当の死因は病気じゃなく、寿命なんだ。ただの風邪をこじらせて亡くなる人も本当にたくさんいる。医者は、いちいち熱心に死因を究明したりはしない。わざわざ病名をつけるのは、売上向上の一環だ。

そして、毎年、人が交通事故で亡くなる確率は、日本では、およそ4万人に1人だ。偶然、事故に巻き込まれる人は確かにいる。でも、交通事故で死ぬことに恐れおののいて日々くらすという生き方を誰かがしていたら、やはり、それは苦笑するしかない。日々のニュースでは怖い事件ばかり報道されて、私たちはそれに少なくない影響を受けているが、報道されるような悲惨な事件が自分の身に降りかかる確率は、交通事故で死ぬより桁違いに低い。にもかかわらず、多くの人の頭の中にはいつも危険があって、ニュースに過剰な反応をしてしまう。

「毎年5000万人もの人が寿命で亡くなっているという驚くべき事実が判明した」なんてニュースを一度放送したら、みんな少しは正気に戻るかも知れない。

かつて、北京にある世界一にランクされている自然科学研究機関にずいぶん通った。そこで、バクテリアの研究者達にインタビューしまくって分かったのは「バクテリアについては、まだほとんど何も分かっていない」ということだった。実はあなたは、自分の細胞の数よりずっと多いばい菌をもっているという事実がわかったのも最近だ。人間は無数の生物に包まれた地球のような存在だったのだ。そして、菌は短時間で2乗で増えいくから、殺菌消毒してもしようがないし、そもそもほとんど無害で共生している。ミクロ・レベルのバクテリアに関する知識でさえ、そんなもんで、バクテリアとウイルスは像とアリくらい大きさが違うんだから、推して知るべしだ。他にやること見当たらないからと言ったって、生物じゃないウイルスを殺菌してどうすんの!科学者は政治家と違って純粋に真実を探求していると誤解しがちだが、本当は科学もとてもプロパガンダ的で権威主義的だ。

10年ほど前私は、「人間を大量に殺す方法は戦争とウイルスしかない」から、パンデミックを少し調べたが、唯一の事例であるスペイン風邪の報道がかなり胡散臭いことがすぐにわかって、やめてしまった。SARSの死者だって驚くほど少なかった。「人間を大量に殺すウイルスは存在しないし、もちろんつくる技術もない」という10年まえの私の結論は、今の世界状況によって裏付けられたかも知れない。

そして、性懲りも無く、次のテーマは二酸化炭素だ。透明な空気の中の無味無臭の微量成分、私たちが毎日吸ったり吐いたりしているものが、極端に熱を抱える性質があって、それでこれ以上化石燃料を燃やすのは、地球の未来を脅かすと大騒ぎしている。しかし、最近たまたまラジオで聞いて笑ってしまったのは、南極の昭和基地が70年近く気象観測を続けても、いまだに気候変動の兆候はまったくないということだ。南極の氷がちゃんと溶けないと、海面が上昇しようがないというのに・・・。なんでもやることが早すぎる私は、90年代は環境主義者だったが、2000年代初頭、アルバート・ゴアが「不都合な真実」の世界キャンペーンを始めたことで、そのカラクリに気づいてしまった。すぐに私は、宗旨替えをした。かつて環境主義者は「環境でメシが食えるか!」と一喝される存在で、ビジネス界では肩身が狭かったのだが、今ではみんなどうやって環境で一儲けするかばかり考えている。時代も成熟したものだ。

ついでに、最近、政府は55兆円の経済対策を発表していたが、それによって見込まれる経済成長は3%だと堂々と説明していた。55兆円はGDPの10%だ。アウトプットがインプットより小さいことを誰も不思議に思わず、ツッコミも入れず、30年も同じことをやってきて、先進国としては史上例がない規模の借金をつくってしまったわけだ。差額はどこに消えるんだ?この奇妙キテレツさは、『1984』の政府関係者だって、目が点になるだろう。長く長く政権の座にある自民党の政権担当能力は、つくづく偉大だ。

オーウェルの予見

さて、『1984』でオーウェルが見通したものは、世界の支配層の特権を維持するためには、人びとを貧困状態において自分で考えて行動する力を奪う必要があり、そのために世界を3分割して絶えまない戦争がでっち上げられるという未来社会だった。

オーウェルが書いてから60年あまりたって、世界はどうなったのか?

彼が愛し、期待を寄せた、まともで人間らしい(decentな)最下層の人たち「プロール」の識字率は、彼の期待を超えて向上してほぼ上限に達した。でも、インターネットの発達で日常的に接する情報量が飛躍的に増えてしまったために、ただその洪水に飲み込まれるばかりで、情報を冷静に判断する能力を無くしてしまったように見える。情報に右往左往するのはエリートもまったく同じだ。

絶えざる戦争は起こらなかった。戦争は根絶されていないが、この世界で、戦争を含む暴力で亡くなる人の数は、いまや交通事故で亡くなる人よりずっと少ない。この事実はしっかりと認識すべきことなんだ。

第2次世界大戦で連合国の各国政府は、国民の協力をえるために、「この戦争は、ファシズム、全体主義とデモクラシーの戦いだ」といった。いまだに全体主義の陰が色濃く残る日本では、このことがほとんど理解されていないのだが、それで、デモクラシーが戦争に勝ったわけだから、各国政府は、曲がりなりにもデモクラシーを推進しないわけにはいかなかった。デモクラシーは、まだまだ不十分で名ばかりの部分も多々あるが、今や誰もその価値を否定できない。少なくとも政治家が「国民の人気取り」をする必要はある。もちろん戦争をしたい人は、戦争で儲かるわずかな人だけで、人びとは、誰もやりたくない。だからデモクラシーの進展は着実に戦争の足枷になっている。そもそも私たちの脳は人称を識別しないから、死にたくない自分が、人を殺すことには何よりも嫌悪感がある。人間が「自然が贈り物として与えた『情の深い心』をもつ」(ジャンジャック・ルソー)のは、本来、自分と他人を区別できないからだ。この情を麻痺させるために、世界中の子供たちに無機質な人殺しゲームをさせているわけだが、その効果はどうだろう?

ウイルスや温暖化で大量の人が死ぬことはないだろうが、コンピューターが誤作動を起こすか、または人間並みの知性をもつかして、突然機械が大量に人を殺し始めるというストーリーは十分可能で、今ある技術でやれてしまう。ハリウッドからそんな物語が流されるのはパンデミックと同じだが、それは、つくられた危機を人びとがすんなり受け入れるように意識づくりをしているのだろう。

そして、現代はオーウェルの想像をはるかに超えてテクノロジーが進歩して、人類は本当に過剰な生産力を手にしてしまった。『1984』で、社会にモノ不足が蔓延する様子は、今では、リーダーたちの「不作為」のために世界で部分的に残った現象に過ぎない。かつてレスター・ブラウンは『誰が中国を養うのか?』という本を書いたが、中国は今でも100%近い食料自給率を維持している。ブラウンがならした警鐘は、マルサスとまったく同じで、見当はずれだった。

そう、社会にモノが溢れ、誰もが情報にアクセスできるようになった。がしかし、貧困はなくなっていない。足りないものが何もない社会なのに、この国で時給1,000円以下で働く人はどれほどいるだろう?1日8時間、月に20日働いて16万円、結婚して子供をつくることさえできず、不安定な雇用に怯え続けるだけだ。そして、今や先進国で働く人のおよそ4割が自分の仕事は誰の役にも立っていないと感じている。ただただカネのためのどうでもいい仕事に人生の大きな時間を拘束されて一生を終える。

なぜこんな状態がまかり通って、ほとんど問題視されないのだろう?本当は足りないものが何もない社会で、こんな状態が放置されるのだろう?

オーウェルは、貧しい人たちと寝食を共にして、「彼らは劣ったダメな人間では決してない」と詳しく説明したが、彼が指摘した問題は、80年経った今でも、まったく解決されていない。

​ブレイクスルーは?

これは、『権力の終焉』(モイセス・ナイム著)の一節だ。

2011年夏、マドリードのプエルタ・デル・ソル(太陽門)広場にテントを張っているインディグナドス(怒れる者たち)を真似て、マレーシアの活動家の小さな一団がクアラルンプールの独立広場を「占拠」することを決めたとき、それをきっかけとして同じような運動が生まれ、ウォール街を陣取り、世界中の2600都市で同様のイニシアチブを引き起こすことになるとは、誰が予測できただろう。  これまでのところ、このオキュパイ運動によって生まれた明確な政治的変化はきわめて乏しいが、その影響は注目に値する。有名な1960年代の年代史家トッド・ギトリンはこう述べている。「残酷な戦争、満足の得られない豊かさ、劣化した政治、抑圧された民主的な約束といった議論を大衆がおこなうようになるまで、60年代という大昔は3年もかかった。それが、2011年にはたったの3週間で実現した」。スピード、インパクト、水平的組織という新しい形態から言えば、オキュパイ運動は、伝統的な政党がかつて独占していたもの──社会の人々が自分たちの怒りや希望や要求を伝える手段──が浸食されていることも浮き彫りにしている。

ナイムは大事なことを述べているが、残念ながら、プエルタ・デル・ソルで行われたことを追跡していない。彼らは怒り狂ったあてどない烏合の衆ではなかった。広場でキャンプした人たちは、毎朝全員参加の総会をやって自治を始め、やがて各地で地域政党をつくって選挙に勝利した。さらに、プログラマー達が結集して、市民が直接オンライン上で行政の予算を決め、条例をつくるプラットフォームを完成させ、世界中にこのシステムを無償提供している。もちろんマスメディアは彼らの先進的な取り組みをきちんと取材して報道するなんてことをしないから、それが世界に広く知られているとは言えない。しかし、前回の経済危機をきっかけに、世界のデモクラシーは次のステージに入ろうとしている。イタリアでもそうだが、彼らは既存のシステムに大穴をあけることに成功している。もちろん既得権をもつ勢力の根強い抵抗があって、まだ安定的な過半数の支持を得られていないだけだ。

ナイムが指摘するように、特に第2次大戦後、政府であれ企業であれ、労働組合であれ、とにかく巨大化を目指した。権力をもつということは、組織を巨大化させながら、そのピラミッドの頂点にたつことを意味していた。だが、今その巨大組織自体が完全な機能不全に陥って誰もコントロールできなくなっている。多くの人は自分は巨大な社会組織の中で、指示通りのことを正確にやれば生活費をもらえる歯車だと無力感を覚えてきたが、それはピラミッドを登りつめても大して変わらないということだ。

ナイムは権力が弱体化していると言ってるが、私たちが再確認すべきは、権力こそユヴァル・ノア・ハラリがいう「虚構」だということだ。そもそも人間は、誰かに一方的に命じられて動くこと自体に強い拒否感をもつようにできている。権力とは、生きることが脅かされるとチラつかせながら、人に何かを強いることだが、実際は、ほとんどの場合、指示を拒否しても生きていける。多くの場合、組織の指示を拒否すれば、そのピラミッドを登る機会をなくすが、そもそも「ピラミッドを登れば幸せになる」というのは幻想で、実はそのために失うものも少なくない。優越感がもたらすものは本来の幸せからほど遠い。

そもそも、人間は、何かを強いられるだけで拒否感をもつだけじゃなく、尊厳を守るために命を投げ出すというのも、実は特別な人に授けられた崇高なものでもないのではないか?そして、私たちは、生まれながらに不平等を嫌悪するし、困った人がいたら、見返りなど求めずに助けようとする存在であることは、幼児の行動を研究して判明していることだ。「人間は生まれながらに利己的で、悪しきに流れやすい」という刷り込みは事実じゃないことが明らかになっている。権力闘争は人間の本性だというのも完全な間違いだ。人びとが生まれた時の人間観を取り戻すとき、文明の誕生から長く続いた支配のマトリックスは消滅するだろう。

言うまでもなく、今の世界で最大の虚構はマネーシステムだが、「そもそも俺たちはカネに支配されるために生まれてきたんじゃない!」というは誰もが同意するだろう。「マネーは人間社会の営みの中で自然に生まれたもの」というアダム・スミス以来の固定観念のために、その仕組みを見直してヒューマンなものにするという取り組みは今までほとんどなされてこなかった。

でも、気が付けば、呆れるほど単純なカラクリだ。支配のコアにメスを入れられる日も、そんなに遠くないだろう。私たちが世界中でつながれるのもまた明らかなことだ。

https://youtu.be/vJjaQknZPCM



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