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ロードス島戦記 制約の王冠(1)、ファンタジーを読む、グスコーブドリの太陽系、行為と妄想

2019年第31週。週末からお盆休みをとった。

ロードス島戦記 制約の王冠(1)

ロードス島戦記、ロードス島伝説、新ロードス島戦記に続く実に久しぶりの新シリーズ。今回はあれから100年後のロードス島が舞台とのこと。シリーズ再開にあたって、僕は事前にこんな予想をしていた。

今度のロードス島戦記は、移民と宗教の時代の話になる。

というのには文脈があって、これまでのロードス島戦記というのは、「英雄と戦争の時代」であり、「政治と経済の時代」だったからである。であるならば、次のロードス島戦記が現代に通じるテーマを描くとすればなにか? そして、マーモという邪教と異種族が多数存在する島にたどり着いた前作の主人公たちの未来はどうなるか? などと考え、おそらく移民と宗教の時代の話になるのではないか、と、そんな風に予想した。通常、こうした予想にはなんの意味もないが、RPGがその出自であるロードス島戦記という小説は、読者を参加者の気持ちにさせずにおかない。だからついこんなことを考えてしまう。

しかし、久しぶりにシリーズが再開されてみて思ったのは、第1作「灰色の魔女」がリリースされた当時とは、本当に時代が変わった。あのときはまだ、『ハリーポッター』も世に出ていなかったし、『ロード・オブ・ザ・リング』も『ゲーム・オブ・スローンズ』もなく、これほどまでにファンタジーが市民権を得ている時代ではなかった。ひるがえって、現代においてロードス島戦記が受け入れられやすくなっているかというと、そうではないだろう。おそらく、もっと刺激の強いものを求める読者の存在によって、むしろハードルがあがっている。
それにどう応えていくのかと考えるとき、ディードリッドというキャラクターの存在が非常に楽しみ。永遠に近い寿命をもつハイエルフは、人間とは違う時の過ごし方をしている。だから、前作から100年という時を経ても、このディードリッドというキャラクターは、成長を感じさせず、主要な登場人物にも関わらず妙に影の薄い存在として主人公に寄り添うかたちで登場する。しかしというか、もちろんというか、重要な役割を果たすであろうことが暗示されている。長命なエルフがゆえの独特の存在感は、実際に長命なシリーズでしか描き得ないだろう。それにからめてさらにもうひとつ期待をするとすれば、再び「灰色の魔女」か。

などといった予想は本当に本当に意味がないのだけど、実際にその島で、あるいはフォーセリア世界で役割を演じたことのある(つまりローグプレイングしたことのある)人間に、その先を考えるなというのは無理な話である。そういう期待を膨らませるに十分なクオリティの第1巻だった。

ロードス島戦記をテーマにしたポッドキャストの番組を作りましたので、ここに追記します(2022年2月)。

ファンタジーを読む

表紙から想像したのは手軽なファンタジー小説ガイドのような内容だったのだが、どうしてどうして、本格的な批評だったので途中から正座気味に姿勢を正して読んだ。僕が小説を書くうえで強く肯いた点をいくつかメモしておく。

 荒俣宏が、水木しげるの妖怪世界が二十一世紀にさらにブレイクしたことに関して、「見えない世界」「さわれない世界」を扱うのが情報化社会である、それにのって、「大脳で感じた世界を、目や耳や肌のリアリティにつなげてやること。それがコンピュータの、イメージとリアリティを結合させる力」だと述べていますが、まさに二十一世紀のネオ・ファンタジーの隆盛とはこのことなのです。現実的な五感に翻訳された「気配の世界」です。
 そのさきがさらにどうなるのか。
 五感が拡張していったさきですが、わたしはおそらくこのさきは「意識」を探索するファンタジーになってゆくだろうと思います。

あとは、アウエルバッハの『ミメーシス』でいう前景と背景という考え方を使った手厳しい『ゲド戦記』批評がよかった。あとはなんといっても「つくも神」を引っ張り出した考察。

 現代において書物は印刷から電子文字の情報へ移行し、楽器の音はコンピューターで作られ、画像は一瞬に複製され、3Dプリンターは設計図からただちに本体を生み出している。文化を支えてきた道具から、それに働きかける物理的力や職人技、また固有の物質性が剥奪され、みるみるうちにサイバー世界の記号へと解体されてゆく時代である。
 W・ベンヤミンが言うように、モノのオーラや唯一性も失われてゆくかのごとく見えるだが、こうして「つくも神」というポイントから考えると、実はそうではないことが見えてくる。
 物質が情報に転換される、ということは、そうした流動的な量子力学的なエネルギーと固い物質が、スペクトルの中で連続になることだ。つまりモノが情報化・エネルギー化されることにより、より生命化(アニメイト)されうるという感覚も、私たちの心の中で自然になってきたように思われる。
 自然から生まれた妖精に加えて、人工のモノに魂が宿る「つくも神」が、人にとって新たな親和的「環境」を作り出す時代はすでにやってきている。

素晴らしい内容だった。おすすめします。

グスコーブドリの太陽系

このような惹句が記されている。

書き手と読み手、虚構と現実、過去と未来、そして現在、あらゆるボーダーを溶かして、物語は進む。/それは小説家・古川日出男の狂気を通過するような体験だった。(後藤正文)

まさにこの通りの、古川日出男氏の凄まじさに慄くような内容だった。宮沢賢治の作品が好きだというだけでは、もしかしたら受け付けないかもしれないが、宮沢賢治も古川日出男も好きだったら麻薬的な魅力を感じるはず。

ちなみに、今年のイーハートブフェスティバルの初日8月31日(土)にアジカンの後藤正文氏と共に朗読で出演するとのこと。近くに居たら行きたかったなあ。

行為と妄想

梅棹忠夫の自伝。どこに興味をひかれているかというと、実は1920年という氏の生年にある。いまからちょうど(ほぼ)100年前、第一次世界大戦直後に生まれ第二次世界大戦そして十五年戦争を経て21世紀まで生きた教養ある人物のタイムラインをつかむうえで助けになった。しかし振り返って印象に残っているのは、モンゴルの草原に吹く風やその匂いだったりする。そうだ。結局そういうことだよなと。

今週もがんばろう。

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