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2000年代に世界は同一都市文化になり、逆に国内の分断が広がった 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.786


特集 2000年代に世界は同一都市文化になり、逆に国内の分断が広がった〜〜〜現代日本の「横の旅行」と「縦の旅行」(3)



貴族でも平民でもなく、知識人でも一般大衆でもなく、だれもが参加できる「中間文化」が戦後の日本では花開きました。それを支えたのはテレビや新聞、ラジオ、雑誌といったマスメディアです。だれもがアクセスしやすいメディアが存在することで、文化は一部の階層だけでなく、あらゆる階層のあらゆる土地の人へと津々浦々に広がっていくことができました。


かつてファッション雑誌がつくり出すトレンドは、3年ぐらいで地方にも広く波及すると言われていました。東京で1980年に流行ったファッションは、1983年ぐらいになると東北から九州までの地方都市の多くで見られるようになる。中間文化の多くは東京にある出版社やテレビ局や広告企業によって生成され、それがじわりと全国に広がっていくという中央集権型だったのです。


この中間文化の時代は、おおむね1950年代から90年代ぐらいまでは持続したと言えるでしょう。長いといえば長いけれども、わずか半世紀というのは歴史の時間で言えばあっという間でもあります。


2000年代、東京と地方の関係は大きく変わっていきました。東京の文化的な中央集権が崩れ、東京を目指す若者が減り、中央志向ではなく「地元を愛してる」「地元で仲間と楽しくやっていきたい」と考える若者が増え、「ジモティ」ということばが流行り、2010年代には「マイルドヤンキー」と命名されるようにもなりました。


このあたりから東京のファッションが時間差で地方で流行るということがだんだんと減っていき、たとえば東京では無印良品のようなモノトーンの衣類が好まれるのに対し、地方ではシマムラに代表されるようなデコラティブで華美な日常着が愛されるというような分離が起きてきます。


この時期の地方発、そして東京は無縁だった文化のひとつとして「ケータイ小説」があります。わたしは2008年に「ケータイ小説家―憧れの作家10人が初めて語る“自分” 」(小学館)というルポルタージュを出しており、この時期ケータイ小説を書いている若者たちに集中取材をしています。この本のあとがきで、わたしは以下のように書きました。引用します。


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いまの若者たちの多くは、将来に夢を抱くこともできず、仕事も見つけにくく、収入も少なく、とてもつらい目に遭いながら、それでも一生懸命生きている。特に地方の街では、高校を卒業してもたいした仕事はなく、フリーターになるぐらいしか道はない。家のまわりには田んぼと寂れた工場、それに街道沿いにぽつんぽつんと立つコンビニエンスストアやマクドナルドやユニクロぐらいしかなく、テレビに出てくるような華やかな都会の生活にはまったく無縁だ。


だからといって、そうした女の子たちがレイプされたり、援助交際しているわけじゃないと思う。おそらくほとんどの人たちは、そんなひどい話とは無縁に、ただ淡々と日々を送っているのだと思う。


でもそうした彼女たちにとっては、レイプや援助交際や妊娠は、決して縁遠い世界の話ではなく、いつ自分もそうなるのかわからないリアルなストーリーに映っている。だから彼女たちには、ケータイ小説の登場人物たちがそうした苦難を乗り越え、がんばって生き抜いていこうとする姿に共感できる。


ケータイ小説の世界は、そんなふうな共感を生み出す場所になっている。


読者が「このシーンにすごく感動しました」「この話をもっと知りたいです」と伝えると、作家の側がそうした声を意識して書き直したり、次の展開を考えたりというようなこともごく普通に行われている。作家の側も、そうやって読者と仲間意識を持って、共感できることが、小説を書くときの大きな原動力となっている。


この本にも登場してもらった『天使がくれたもの』のChacoさんは、読者のことを「家族みたいな存在」と呼んでいた。とても強く、作家と読者はつながっている。


私が最初に会った未来さんにしても、そもそも作家志望の文学少女だったわけではなかった。ひとりの女性としてさまざまな経験をし、その経験を文章に書くことで、気持ちの整理ができるんじゃないかと思った。そうやって書いているうちに読者とつながり、気がつけば読者との共感の中で自分の体験を書いていくことに、すごく大切な何かを感じ取るようになっていた。


未来さんは、ケータイ小説を夜寝る前に布団の中で書くと話していた。


「夜寝る前に、布団に入って……電気も消して、真っ暗な中でケータイの画面だけを見ながら書いていくんです」


その暗くて暖かい親密な空間の中で、みんなの気持ちはケータイの明るい画面の中へと流れ込んでいっている。そんなふうにしてケータイ小説はできあがっている。

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このあとがきでわたしが描いているのは、ケータイ小説は従来のような中央集権型のマスメディアモデルによって、テレビや雑誌などで波及していくコンテンツではなく、あくまでも地方の小さな共同体の中で「仲間意識」によって広がっていったものだったということです。それが可能になったのは、当時はまだガラケーでしたがインターネットに気軽につなげることのできる携帯電話が登場してきたから。


ほぼ同じ時期の2006年、ニューヨークタイムズ紙のトーマス・フリードマンが書いた『フラット化する世界』の邦訳が出ました。この本でフリードマンは、インターネットの威力についてこう書いています。


「中国では、コストの安さと障壁の低減が組み合わされて、文化的コンテンツを創造するプロセスに金がかからないようになり、その結果、普及が進んでいる。だから、グローバリゼーションのこのフラット化フェーズは激しいアメリカ化には結びつかないと、私は確信している。むしろ、ローカルな文化、芸術形式、様式、料理、文学、映像、首長のグローバル化が促進され、ローカルなコンテンツがグローバル化する」


この時期にはYouTubeやiTunesなど、コンテンツを共有するためのプラットフォームがグローバル化していきました。その中で、アメリカに住んでいようが中国に住んでいようが、はたまたアフリカにいようが、安価にコンテンツを発信し、楽しみ、そして共有することは世界中のだれもが可能になっていく。そのためのコストはどんどん低下しているし、国ごとの違いはほとんど関係なくなったのである、と。


このフリードマンの主張は、従来言われていたような「グローバル化」の懸念とは真っ向から対立していました。それまでは「マクドナルド化」などとも呼ばれ、「グローバル化によって世界中の文化が統合されてしまい、国ごと民族ごとの独自性が失われてしまう危険性がある」と言われていたのです。


米国の戦後のロックやポップス、ハリウッド映画などの「ソフトパワー」に象徴されるように、20世紀は情報発信力が強い国の文化が、他の国の文化を浸蝕していました。世界に配給する能力を持つハリウッド映画、世界にCDを売りまくる力を持つアメリカのメジャーレーベル。そうしたパワーに対抗する情報発信手段を、アメリカ以外の国は持つことは非常に難しかったのです。


ところがインターネットのメディアが普及し、コストが低下していくと、「情報発信パワー」にはあまり意味がなくなってきます。そもそも情報発信がパワーたり得たのは、情報発信が絞られていたマスメディアの時代。市場原理でいえば、1990年代までのマスメディア時代には、


需要=情報を求める人々の欲求 > 供給=新聞・雑誌・テレビ・ラジオの情報発信


というように需要が供給を完全に上回っていて、情報に対する飢餓感さえありました。しかしインターネットが登場し、みんながブログやユーチューブやクチコミサイトなどで大量の情報を発信するようになると、あっというまにこのような飢餓感は消滅します。


需要=情報を求める人々の欲求 < 供給=新聞・雑誌・テレビ・ラジオに加えて、ネットから発信される無数の情報


情報量が数万倍以上にもなり、供給が需要を完全に上回ってしまったのです。そのようなメディアの環境の中では、マスメディアの情報発信のパワーは相対的に失われてしまったのです。一方で、ビッグテックが運営するプラットフォームがグローバル化し、巨大な基盤となりました。この基盤を使って、ローカルな文化がローカルな世界で消費される。従来のような対面のクチコミだけでなく、それをSNSやメッセンジャーなどで支えて共有していくということが当たり前になりました。


つまりグローバルなプラットフォームのうえで、より細分化された文化圏圏域のコンテンツが縦横無尽に流通していく世界ができあがったということです。

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