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ミュージックビデオの身体論⑦アマチュアの身体──スパイク・ジョーンズからCGMへ

7. アマチュアの身体──スパイク・ジョーンズからCGMへ


イラスト:湖海すず

7-1. 『ディレクターズ・レーベル』とMVにおける作家主義

研究者の下澤和義は、MVというジャンルの社会的な認知度の向上を段階的に示す出来事として、①1984年からグラミー賞に「年間最優秀ビデオ」部門が創設されたこと、②1992年からMTVが楽曲のアーティストだけでなくMV監督の名前も画面に表示するようになったこと、③2003年にMV監督毎の代表作をまとめたアンソロジーDVD『ディレクターズ・レーベル』シリーズが発売されるなど、メディアだけでなくマーケットでもMV監督の需要が高まったこと、④MV監督が劇場映画制作にも進出するようになったことの4段階を挙げている(下澤和義「ミュージック・ヴィデオ分析試論」『アルス・イノヴァーティヴァ——レッシングからミュージック・ヴィデオまで』中央大学人文科学研究所編、中央大学出版部、2008年、pp.158-159)。端的に言えば、MVを監督個人の表現物と見做し、その独自のスタイルや一貫した主張などを称揚する「作家主義」の時代が到来したということだ。

ディレクターズ・レーベル』(2003)

作家主義はもともと、1950年代のフランスで若手の映画監督や批評家によって提唱された批評的戦略であった。映画を単なる見世物や商品としてのみ扱うのではなく、作家による芸術作品の一形式として鑑賞・評価するよう促したことで、その後の言説に大きな影響を与えると共に、映画の社会的地位向上に寄与した。ただしその後、作家主義は映画を取り巻く社会的・経済的・政治的要因を軽視しているのではないか、監督以外のスタッフや観客が果たしている役割を軽視しているのではないかといった疑義も呈され、現在ではより幅広い要素を勘案した研究・批評が求められるようになっている。

私自身の立場としては、作品を分析するための様々なアプローチの一つとして用いるのであれば──その方法の不完全性や、そこで捨象されているものへの自覚を持ち続けられるならば──作家主義は今でも、新たな視点や論点をもたらしてくれる有効な方法として活用し得ると考えている。

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7-2. スパイク・ジョーンズ

ディレクターズ・レーベル』の第1弾では、スパイク・ジョーンズミシェル・ゴンドリークリス・カニンガムという3名のMV監督が紹介された。それぞれ、史上もっとも成功したMV監督として名前が挙がるであろう作家であり、MVにおける作家主義を体現する存在であると言えよう。手がけた作品も無数にあり、そのスタイルを一言でまとめることはできないが、本稿ではあくまで「身体」というテーマに絞り考察を進めたい。具体的には、3名の作家が1990年代から2000年代にかけてMVに描き出した身体のイメージが、後続の作家たちによって──自覚的であれ、無自覚であれ──受け継がれ、現在のMVが描き出す身体イメージの「原型」もしくは「類型」となっていることを示せたらと思う。

まずはスパイク・ジョーンズから取り上げることにしよう。ミシェル・ゴンドリーとクリス・カニンガムについては、次回・次々回で順に論じる。

スパイク・ジョーンズ

スパイク・ジョーンズは、1969年アメリカ生まれのMV監督・映画監督。1980年代は写真やテレビCMなどの仕事をし、1990年代初頭からMV監督としての活動を始めた。ソニック・ユースやビースティ・ボーイズ、ビョークなど名だたるアーティストのMVを手がけており、2001年にはファットボーイ・スリムの『Weapon of Choice』のMVを制作して、MTVミュージック・ビデオ・アワードとグラミー賞の最優秀ミュージック・ビデオ賞を受賞する栄誉を得た。また1999年には『マルコヴィッチの穴』で長編映画制作に乗り出し、その後も『アダプテーション』(2002)や『かいじゅうたちのいるところ』(2009)、『her 世界でひとつの彼女』(2013)、など野心的な作品を次々に発表。映画監督としても高い評価を得ている。

スパイク・ジョーンズ『her 世界でひとつの彼女』(2013)

7-3. 状況設定と一点突破型のパフォーマンス

スパイク・ジョーンズは、莫大な予算をかけて豪華な衣装や舞台装置を用意するよりも、身近な題材やありふれた場所をアイデア勝負で魅力的なMVの舞台に変えることを得意としている。その表現手法も多岐にわたるが、特にここで注目したいのは、ひとつの状況(シチュエーション)を設定した上で、そこで繰り広げられるアーティストやダンサーらによるパフォーマンスを丁寧に見せることに特化したMVだ。

例えばケミカル・ブラザーズの『エレクトロバンク』(1997)では、ソフィア・コッポラ演じる新体操選手が競技会に出場し、観衆やライバルの前で踊る姿が映し出される。既存の映画やテレビドラマから1シーンをまるごと抜き出してきたかのような作りで、それ以外の余計なカットが挟まれることはない。種々雑多な視覚的アイデアをひとつの作品に詰め込み、衣装や舞台を何度も取り替えるような種類のMVとは対照的な作りである。

ケミカル・ブラザーズ『エレクトロバンク』(1997)

ファットボーイ・スリムWeapon of Choice』(2001)では、くたびれた表情で椅子に座っていた俳優クリストファー・ウォーケンが、音楽が鳴り始めると共に豹変し、他に誰もない室内でキレのいいダンスを披露する。終盤に彼の身体が浮かび上がり、空中で静止する展開がある以外、特殊な仕掛けや奇抜な視覚効果などはほとんど用いられていない。とにもかくにも「クリストファー・ウォーケンが真顔で踊る姿を見せたい」のだという、シンプルなアイデアの一点突破で撮られた作品である。

ファットボーイ・スリム『Weapon of Choice』(2001)

スパイク・ジョーンズは2017年に制作したウェブCM『KENZO WORLD The new fragrance』でも『Weapon of Choice』とほぼ同じ構成を反復し、俳優マーガレット・クアリーの独壇場のパフォーマンスを提示する。楽曲の世界観を補強したり、演奏するアーティストの姿を映し出したりすることよりも、自分自身のスタイルや得意とする表現方法を全面に打ち出しているという点で、スパイク・ジョーンズはまさに「作家主義」を体現するMV監督であると言えよう。

『KENZO WORLD The new fragrance』(2017)

このように、やや特殊な舞台や状況を設定した上で、1点突破型のパフォーマンスを記録していくスタイルを、例えば水曜日のカンパネラのMVにも見ることができる。『アラジン』(2016)では、ボウリング場という舞台に身を置いたコムアイが、そこに設置されたレーンやリターンラック、テーブルやソファー、ボールやピンなどを小道具として活用したパフォーマンスを繰り広げる。途中、いくつか別撮りされたカットも挟まれはするが、基本的に全編が「ボウリング場」という場所から発想されたアイデアで構成されていることには変わらない。それらの要素をコムアイの身体とパフォーマンスが束ね、まとまりあるひとつの流れが作り出されている。

水曜日のカンパネラ『アラジン』(2016)

7-4. パロディ

スパイク・ジョーンズのMVに散見されるもうひとつの特徴として、「パロディ」を挙げたい。彼が注目を浴びるきっかけともなった初期の代表作『サボタージュ』(ビースティ・ボーイズ、1994)は、大規模予算のMVにはしたくないというアダム・ヤウクからの要請により、衣装係が用意したたくさんの衣服や小道具の中から使えそうなものを選び出すことを通じてMVの方向性が定まっていったという(『ディレクターズ・レーベル──スパイク・ジョーンズ ベスト・セレクション』ブックレット、アスミック、2005年、pp.9-11)。結果、『サボタージュ』はビースティ・ボーイズの3名が覆面捜査を行う警官に扮した、70年代風の刑事ドラマのパロディとなった。

ビースティ・ボーイズ『サボタージュ』(1994)

他にも、スパイク・ジョーンズは『Buddy Holly』(ウィーザー、1994)では70〜80年代に放映されたテレビ番組『ハッピーデイズ』、『it's oh so quiet』(ビョーク、1995)ではハリウッドミュージカルをモチーフにしたパロディ的なMVを制作している。ここで興味深いのは、何かを模倣しようとすればするほど、そのアーティスト自身の固有な身体のありようが際立って見えてくることだ。パロディは完全な再現──オリジナルと見分けがつかない状態──の一歩手前に立ち止まることによって、両者の類似よりもむしろ差異を際立たせる。実は「アーティストの身体を映し出す」というMVの主目的に適した手法なのである。

ウィーザー『Buddy Holly』(1994)

低予算×パロディの組み合わせを受け継いだMV監督としては、加藤マニが挙げられるだろう。2005年から毎年、尽きせぬアイデアを武器に膨大な数の作品を発表しているが、意外なことに撮影に用いる機材は最小限に留めており、2018年のインタビューでは「カメラもレンズも1個ずつしか持っていない」と答えている(「怒られたくない加藤マニ──音楽シーンに存在感を示す“なんかちょうどいい”仕事ぶり」音楽ナタリー、2018年8月13日)。企画・撮影・演出・編集をほぼ1人でこなし、さらには1台のカメラだけで作品を撮り上げてしまうという、特異なスタイルの映像作家だ。

1台のカメラですべてを賄うようになったきっかけとして、加藤はキュウソネコカミの『ハッピーポンコツ』(2015)を挙げている(「ミュージックビデオディレクター「加藤マニ」──α7Sたった一つで年間50本ものMVを量産する男」α Universe、2016年7月7日)。要人救出ミッションに挑むエージェント役をキュウソネコカミのメンバーが演じる同作は、スパイ映画のパロディであるというよりもむしろ、スパイク・ジョーンズの『サボタージュ』のMVの直接的なパロディもしくはオマージュと見るべきだろう。低予算×パロディの組み合わせによって映し出される身体は、鍛え抜かれた「スター」の身体でもなければ、スパイ映画の物語世界を立ち上げる「俳優」の身体でもない。キュウソネコカミの日常やメンバー間の関係性が垣間見えるような「等身大」の身体である。

キュウソネコカミ『ハッピーポンコツ』(2015)

7-5. ストリート・カルチャーとモビリティー

スパイク・ジョーンズによる「パロディ」表現が、アーティストの飾らない生身の身体を露呈させる試みであるとすれば、彼が「路上」(ストリート)を舞台として撮影したMVは、そのような生身の身体を媒介とすることで、彼/彼女らが生きる「環境」、あるいは「都市」の様相を浮かび上がらせる試みとして見ることができるかもしれない。

ビースティ・ボーイズSure Shot』(1994)では、メンバーの3名がタキシード姿でパーティーに参加する姿と、ラフな普段着でロサンゼルスのドームビレッジや空き地などの路上で歌う姿が交互に映し出される。上流社会のパロディないしはコスプレ的なイメージと、普段の生活をありのままに見せるオフショット的なイメージを並べて見せることで、ビースティ・ボーイズというグループの社会的・文化的な立ち位置が浮かび上がってくる。当時の彼らは楽曲だけでなく、MVやCDジャケットなどを通じて、ファッションやアートワークの面でも多くのアーティストに影響を与えた存在であった。

ビースティ・ボーイズ『Sure Shot』(1994)

ファーサイドDrop』(1995)では、ファーサイドの4人が街を練り歩きながら歌う姿が全編逆再生で映し出される。撮影に際しては、歌詞を逆さにした言葉を覚え、逆再生した時にリップシンクが成立するように準備をしたのだという。興味深いことに完成したMVは、逆再生されることを見越した動作や振る舞いを見せる4人の身体だけでなく、その周囲を通り過ぎていく通行人や自動車など、ありふれたストリートの風景全体を、新鮮で活き活きしたものとして提示する。逆再生がもたらす異化効果が、画面に映るあらゆるものを「よく見る」よう促すのだ。シンプルな仕掛けではあるが、『Drop』はファーサイドのメンバーたちが生きる環境や文化のありようを生き生きと描き出しており、一種の都市論もしくは風景論として見ることができる。

ファーサイド『Drop』(1995)

Spikey Johnは、その名の通り(?)、スパイク・ジョーンズが開拓した都市論・風景論的MVの系譜を受け継ぎ、東京などの大都市を主な舞台として、日本におけるストリートカルチャーのありようを克明に記録する映像作家である。例えばJP THE WAVYCho Wavy De Gomenne』(2017)では、逆再生の代わりにスローモーションを効果的に用いることによって、踊り歌う身体を取り囲む都市の細部(ディティール)を見事に捉えている。またデジタル(ビデオ)カメラ特有の高精細なルックも、やがては2010年代の都市風景と併せて、その時代の空気を記憶したイメージとして定着していくだろう。

JP THE WAVY『Cho Wavy De Gomenne』(2017)

7-6. アマチュアの身体/機材/技術

アーティストの日常生活や普段着のファッション、飾らない身体を好んで描くスパイク・ジョーンズの志向は、ファットボーイ・スリムPraise You』(1999)において、ついに「アマチュア」の身体の直接的な提示にまで到達する。彼はこのMVのために、トーランス・コミュニティ・ダンス・グループという架空のダンス集団を作り出した。そして自らグループのリーダーを演じ、ロサンゼルスの映画館の前で楽曲に合わせてダンスするというゲリラパフォーマンスを決行。その様子を撮影した映像をそのままMVにしてしまったのだ。

スパイク・ジョーンズ本人はもちろんのこと、トーランス・コミュニティ・ダンス・グループのメンバーはどう見てもプロフェッショナルなダンサーではない。ぎこちない姿勢で、たどたどしく手足を動かす姿は、かつてマイケル・ジャクソンやジャネット・ジャクソンらがMVで披露した「スター」の身体、鍛え抜かれ、統率がとれた身体とは隔世の感がある。だが『Praise You』は、その公開から10数年後、インターネットの動画配信の広がりに伴って急速に存在感を増していく「アマチュア」の身体を先取りしていた。

ファットボーイ・スリム『Praise You』(1999)

また『Praise You』は、アマチュアの身体だけでなくアマチュアの「機材」およびアマチュアの「技術」を用いて撮影がなされている点でも、インターネット時代を予見していた。おそらく一般家庭向けの市販ビデオカメラで撮られたのであろうその映像は、画質が荒く、三脚を立てていないため手ぶれも激しい。撮影機材の面でも撮影技術の面でも、所謂「ホームビデオ」的なイメージがそのまま用いられ、MVに仕立て上げられている。

このように、あり合わせのものを組み合わせたり、別の用途に転用したりするブリコラージュ的な方法を用いるのも、スパイク・ジョーンズの得意とする表現だ。『it's in our hands』(2002)では、ビデオカメラの夜間撮影機能を用いて、暗闇の中に浮かび上がるビョークの姿を描き出している。そこでは、光量が足りなくても対象を記録することができるという暗視カメラ本来の機能よりもむしろ、その機能によって得られる暗い緑の独特な色彩を、一種のビジュアルエフェクトとして活用することが試みられている。

ビョーク『it's in our hands』(2002)

7-7. インターネット上の動画文化

2000年代中頃になると、YouTubeやニコニコ動画などの動画共有サービスが台頭し、インターネット上の動画文化が花開いた。それに伴いMTVの影響力は低下し、MVの受容形態そのものが激変していくことになるのだが、ここでは変化や断絶よりもむしろ表現上の連続性に目を向けたい。

美術評論家の西村智弘は、YouTubeで最初にバイラル動画(SNSで広く拡散した動画)となったMVとして、OK GoA Million Ways』(2005)を挙げている(西村智弘「インターネット時代のミュージックビデオ──インタラクティブ・ミュージックビデオを中心に」『東京造形大学研究報』21号、2020年、p.157)。全編が固定カメラによる一発撮りで、ホームビデオのような画質。冒頭ではわざわざ「裏庭で踊っている」とのテロップを表示し、アマチュアの投稿ビデオのような体裁を意図的に作り出している。同作はスパイク・ジョーンズが自ら踊った『Praise You』の系譜に連なるMVであると同時に、その後YouTubeなどに無数にアップされる「踊ってみた」動画の先駆けでもあった。

OK Go『A Million Ways』(2005)

OK Goの『A Million Ways』はプロのアーティストが制作した公式のMVだが、ネット上では、アマチュアのアーティストが自作曲に映像をつけて公開したり、既存の楽曲に勝手に映像をつけて公開するといったことも広く行われるようになった。そのような、一般の消費者が生み出した作品(コンテンツ)が流通するメディアは「CGM」(Comsumer Generated Media)と呼ばれる。

西村智弘は上述の論文で、非公式ミュージックビデオファウンドフッテージ(既存の映像を用いた新たな作品制作)、リップダブ(楽曲を流しながら口パクし、その様子を記録する)など、様々な種類のCGM動画を紹介している。例えばオースティン・ホールがFr. Eckle Studios名義で発表した『Daft Hands Harder, Better, Faster, Stronger』(2007)は、ダフトパンク『Harder, Better, Faster, Stronger』(2001)の非公式MVである。歌詞の断片を書き込んだ両手を固定カメラで捉え、指を動かして、楽曲に合った歌詞を提示していく。アマチュアの身体、アマチュアの機材であっても、楽曲のリズムとの心地よいシンクロ感によって評判を得て、「バイラル動画の古典」(西村「インターネット時代のミュージックビデオ」p.159)として語られるまでになった。

オースティン・ホール(Fr. Eckle Studios)『Daft Hands Harder, Better, Faster, Stronger』(2007)

CGMは私的な趣味の場を超えた広がりを見せ、その影響力は次第にメジャーな音楽事務所やプロのアーティストも無視できないものとなる。そうした流れを察知して、巧みなプロモーションを行ったのがAKB48だった。『恋するフォーチュンクッキー』(2013)では、グループのファンに呼びかけて3800人のエキストラを集め、MVを撮影。さらに同作のダンスの「踊ってみた」動画を募集し、各都道府県や企業から寄せられた動画を編集してYouTube公式チャンネルに公開した。プロのアイドルのプロモーション戦略に、「アマチュア」の身体イメージが積極的に取り入れられたのだ。

AKB48『恋するフォーチュンクッキー 鳥取県 Ver.』(2013)

またそれと表裏の現象として、膨大なウェブ動画が再生回数を競い合う中でアマチュアが切磋琢磨し、プロフェッショナルな身体を獲得していく流れもある。2006年に結成されたREAL AKIBA BOYZRAB、現在の名称)は、アニソンの「踊ってみた」動画で注目を集め、2012年に「福原香織とRAB」としてメジャーデビューを果たした。ウェブ動画の隆盛によって、プロとアマチュアの境界は限りなく曖昧なものになっていったが、「アマチュア」の身体は間違いなく、MVに見られる身体イメージの一類型として定着したのである。

福原香織とRAB『フラグゲット』(2012)

REAL AKIBA BOYZ(北海道ダンサーズコラボ)『-5℃の北海道でなまらめんこいギャル踊ってみた』(2024)

「ミュージックビデオの身体論」について

この原稿は、MVを撮りたいという学生や、研究をしたいという学生との出会いをきっかけに書き始めた。自分自身、これまで何を求めてMVを見てきたのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。そういうことを考えるうちに「身体」というキーワードが浮上し、現時点の思考を整理するために、この場(note)を活用することにした。

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