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移住1年になりました。

縁もゆかりもない岐阜に約40年暮らした東京から移住して、早くも1年が経った。歳をとると1年が早いというけれど、この365日は目まぐるしく、かつ楽しく
新鮮で、のんびりと、何もが新鮮で幸せな一年だった。

東京ではできなかったことが、なんだかんだと出来ていて、特に人の広がりは
ヒューマンマグネットと言われた私ですら驚くほど多岐に渡り、幾つものハードルをさっと飛び越えるようにして、贅沢な出会いがたくさんあった。

東京から来た当初は「なんで?!」と思うところもたくさんあり、つい「こうすればいいのに!!」とか「これじゃダメじゃん」と思っていたのだが、よくよく考えると
岐阜のこの時間の流れを気に入って移り住んだのに、随分と東京の価値観を引きずって、比べていたんだと途中で気がつき、少し恥ずかしくなることも。

「郷に行ったら郷にしたがえ」の如く、まずここがどんなところなのかをのんびりとゆっくりと、今までの私にはない時間の過ごし方を心がけて暮らしてみた。

もちろん、豊かな環境にひらめきはたくさんある。
やってみたいこともいろいろ出てきた。
役に立てそうなことも、いくつかありそう。

すぐにでも動き出したい気持ちを抑えて、長良川の如くゆったりと「時を待つ」
ことに。

この心持ちは実はすごく大切で、時に東京の常識は暴力的だったりもして、
この土地は400年前に信長が作り上げた鵜飼が今も形を変えずに残っている。
同時に、3,4代目がザラにいて、東京で100年というのを一つの大きな括りとして
いた私たちにとって、100年ぽっちなんだと気がついた。
長い歴史が生活の一端に色濃く残る場所には実は確実に文化もある。
歴史と文化があるところにはリテラシーがあり、私は初めて民度の高さを
味わった。それは大それたことではなく、長良川のかわぎし、鵜飼が行われるプロムナードにはゴミひとつ落ちてない。

もし、ゴミがあったらそっと拾って捨てるのが当たり前になっている。
どうってことない事のようにも思えるけど、私は渋谷や恵比寿で落ちているゴミを
拾うだろうか。自宅のマンション前に落ちているゴミすら拾って捨てることが習慣かと言われれば怪しいものだ。

街に暮らすとき、その場所が「自分の場所である」というDNAがしっかりと染み込んでいて、言われたからやる、当番だからやる・・・ではない。リテラシーとはこうして生まれるのだと実感した。

以前、ラジオ番組でアイデンティティの話を随分した。
難しくアイディンティティ・・と語るよりも、こうして身に備わったリテラシーは
美しい行動を作り、場への愛情と尊敬を育てアイデンティティを作るような
気がした。

ゴミを平気で捨てる場所にはアイデンティティは宿らないのだ。


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