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第3話 終戦―それが私たちの戦争のはじまり

 かたやこの頃日本は大変な窮地に追い込まれていた。成人男性のみならず、学生である男子も戦線に立つようになった。特攻隊と呼ばれる部隊が戦略も何もなく命を捨てるように体当たりさせられた。そしてこれらをすべて英雄視するような放送が、ラジオから流れていたのである。物々しい雰囲気は樺太にも伝わっていたが、私たちの暮らしそのものはそれまでと変わらなかった。しかし、1945年8月6日に広島、9日に長崎に原爆が落とされたとラジオで聞いた時には、これはいよいよ大変なことになったと危機感を覚えた。日本は勝っていると伝えられ続けていたが、これは負けたのだと誰もが感じた。が、口にはしなかった。
 その頃夫は南名好の派出所から本斗署本庁へ異動になっており、私たち夫婦と長男は本斗町仲通り一丁目にある警察署官舎に暮らしていた。そして8月15日、私たちは官舎にて玉音放送で天皇の言葉を聴いた。事前に大事な放送があると聞いていたので、皆ラジオの前に集まった。電波が悪いのと、何やら難しい言葉でお話しになるので、聴いても内容は明確にはわからなかった。後に、その意味を人から聞き、日本は戦争に敗けたのだと知った。それからだった―樺太が戦場となったのは。



 

 ほどなくして、米軍の樺太上陸に備え、65歳以上の老人、14歳以下の学童、40歳以下の女性と乳幼児、身体が不自由な者と病人を対象とした緊急疎開が始まり、私たちの暮らす本斗と、真岡、大泊が送出港に指定された。
 そんな最中、ポツダム宣言を受諾し、敗北を認めていた日本に対し、ソ連軍は樺太への侵攻を始め、空襲が始まった。日ソ中立条約を無視しての、青天の霹靂である。そこから大規模な引き揚げが始まり、みな港のある南方の街を目指した。当時樺太に暮らしていた日本人はおよそ40万人。王子製紙の工場があった恵須取、炭鉱で栄えた塔路といった北方の街にも多くの日本人が暮らしていたが、国境線に接している古屯、気屯からソ連軍の侵攻が始まり、次いでやや南下したこれらの街がソ連軍の空爆に遭った。彼らはソ連軍の砲撃をかいくぐりながら、港を目指して命がけの逃避行をすることとなった。鉄道車両は限られているため、丸太などを載せる貨車にぎゅうぎゅう詰めになって乗り込んだ。屋根もないただの箱なので、雨風も入ってくるし、途中で振り落とされる者もいた。鉄道路線が近くにない地域の住民はトラックに乗るか、徒歩で駅まで移動するよりほかない。移動の途中、食糧も体力も底をつき、泣く泣く年老いた自らの父母を置き去りにした、乳飲み子の我が子を崖から突き落としたなど、筆舌に尽くし難い体験をした者が後を絶たない。ソ連軍の襲撃を受けた真岡では、最後まで業務に当たっていた郵便局の電話交換手のうら若き女性9人が、ソ連軍に辱めを受けるくらいならと服毒し自決するという痛ましい事件も起きた。

 緊急疎開は官公吏警察関係の家族が優先であった。また送出港である本斗に暮らしていたこともあり、私と1歳の長男は幸いにも8月18日、引き揚げ船に乗ることができた。夫は警察官として引揚疎開業務にあたっていたため、業務を終えたあと養母の実家のある引き揚げ先、青森県西津軽郡深浦にて落ち合うこととしていた。南名好の養父母もすぐに行くと言っていた。
 私たちを乗せた船は北海道の稚内に着いた。そこから青森を目指し、無事に青森の深浦へたどり着いた。それから夫や養父母が引き揚げてくるのを待つ日々が続いたが、待てど暮らせど来る気配がまったくない。岩手の私の生家には祖父の東岩和尚がおり、当時樺太北部の西柵丹にいた息子たち(私の実の両親)の安否をひどく心配し、私に岩手へ来て樺太の様子を聞かせてほしいと再三懇願された。ただ、深浦では養母の母の病が日に日に悪化していたため、病床に伏す彼女を置いて岩手に行くわけにもいかなかった。必死の看病も空しく、彼女はついには危篤状態とまでなってしまった。娘はまだ帰って来ないのか、どうしているだろうと、我が身以上に娘の安否を気に掛けていたが、ついぞ引き揚げてこないうちに息を引き取った。
 しばらくしてから、私はようやく岩手の生家へ赴いた。樺太へ手紙を書いても届かないと言っているのにもかかわらず、東岩和尚は私に樺太へ宛てて毎日のように手紙を書かせた。無理もない。ソ連に占領された樺太への連絡手段は途絶え、我が子が生きているのか死んでいるのかもわからない状態だったのだから。私とて無理と分かっていても手を尽くしたい気持ちは同じ。そのわずかな望みに賭けて筆を執り続けた。

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