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それはやっぱり季節イベント

「うーん……悩ましいな……」
 
 王道でもいいけど、やっぱりチョコまみれのもおいしかったしなあ……いや、でもそもそもこれじゃないのでも……
 ぶつぶつと独り言を言いながら、巣鴨雄大は悩んでいた。その悩みは、だいたい二月の終わりがけから、彼の脳の片隅にぼんやりとあったもので、ついぞ解消されることもなく三月半ばまで来ているものだった。
 悩みの具体的な内容は、すでに去った二月十四日が理由だった。いわゆる、バレンタインデーだ。職場からも恋人からもチョコレートをはじめとした菓子類をもらった彼は、それの返礼品について悩んでいた。職場はなんでもいいのだから、行きがけのドラッグストアで大袋入りの菓子でも買っていけばいいだろう。しかし、問題は恋人のほうだ。
 巣鴨の恋人、本条晶は巣鴨よりも男性的な女性だ。男勝りというわけではないのだけれども、外見がたくましい男性的で、がたいがいい。柔らかさをそぎ落とし、しなやかな筋肉で固めたならば彼女のような外見になるだろうといえる、そんな見た目だ。声も低く、女性らしさのかけらすらない彼女と、そんな彼女よりも背が若干低く、また、筋肉のつかない体質の巣鴨がそばにいれば、気の合う男友達に見えるだろう。実際、そう言われることもある。
 なにより、晶は巣鴨のようにイベントごとに興味があるわけではない。そんな彼女からもらったチロルチョコには、それはもう、驚いたものだ。彼女自身、自分が甘いものが食べたかったから、という理由で巣鴨の分も買ってきたようだから、バレンタインデーのことはすっかり忘れているのだろうけれど。

(いやね、そういうのじゃないんだよな。晶ちゃんが、バレンタイン当日に、俺にチョコレートをなんであれ渡してきた、っていうのがね、大事なんだよ)

 巣鴨はそう心の中で頷きながらドラッグストアの菓子コーナーで迷う。
 あからさまにホワイトデーです、というものは避けたい。晶がその気なく渡してきたのだから、イベントに関係ありませんよ、という顔をした商品が望ましい。いかにも『巣鴨が食べたくて買ってきたから、晶にもお裾分けする』というシチュエーションを演出できるものがなおのことのぞましい。そうなると、大袋入りの菓子がいいだろうか。しかし、小さめの箱に入った少量の菓子を分けるのもそれはそれで楽しいものだ。そもそも、最近の大袋入りの菓子は量が少ないものもあるのだ。
 うーんうーん、と頭を悩ませること十数分。巣鴨はクッキーの大袋を手にすると、セルフレジに向かう。自分で商品をスキャン台に通し、バーコード決済で支払いを済ませる。通勤用のバッグに入れて、店を後にしようとしたタイミングでスマートフォンで時間を確認すると、なかなかいい時間だった。

「やば。見たいテレビがあるんだよな……!」

 急ぎ足でドラッグストアをあとにした巣鴨は、駆け足気味に自宅への帰路につく。ちょうど仕事おわりの社会人が乗った車や自転車が、巣鴨をどんどん追い越していく。そんな彼らを追いかけるように、巣鴨は自宅への道を急いで歩く。
 やっぱり、家を出るときに手袋持ってくるべきだったかな。まだコートのほうがよかったかもしれない。といったことを思いながら、巣鴨は住宅街を歩いて行く。真っ暗な家もあれば、明かりのついた家もある。台所の近くを通り抜ければ、いい匂いが鼻腔をくすぐる。どこかの家では、今日はカレーらしい。

「カレーかぁ。いいな……焼き魚、って気分だったけど、カレーもありだな……」

 晶ちゃんの夕飯は今日はなにかな、とそんなことを考えながら、メゾネットタイプのアパートメントが見えてくる。玄関横のアプローチに置かれた鈍色のカバーを見て、あのカバーずっと使ってるよな、とぼんやり巣鴨は考える。くたびれて破れたりしないのだろうか、とそんなことを考えながら、ごそごそと自宅の鍵を鞄から取り出す。キッチンから換気扇を伝って漂うはずの匂いは、どうやら玄関まではきていないらしい。
 ただいまぁ、と声をかけて玄関扉をくぐって施錠していると、おかえり、という言葉とともに腹を空かせるいい匂いが漂ってくる。その匂いは独特の匂いだが、たしかに肉の焼ける匂いだ。どこかで嗅いだことがある匂いだが、何の匂いかがさっぱり思い出せないまま、巣鴨はリビングに向かう。キッチンの二口コンロに向かう晶が、目線だけを巣鴨に向けてくる。

「おかえり。今日は三割引だったラム肉だ」
「ラムかあ。それで匂いがしたんだ」
「換気扇はつけているんだがな」
「気にしないでよ」

 羊の肉ってあんまり食べないから新鮮だな、と感想を述べる巣鴨に、晶は焼き肉のタレで味付けしたがな、と返事をする。それじゃあいつものお肉と変わらないよ、とけらけら笑う彼に、晶はそうかもな、とフライパンを火から下ろす。

「あ、ドラッグストアでクッキー買ってきたんだ。まあ、その、クッキーっていっても、カントリーマアムなんだけどさぁ」
「ああ。通りで遅かったのか」
「ごめんごめん。いやさぁ、バターのにするか、チョコのにするかで迷っちゃって」
「気にしていない。そうか、今はバターやチョコだけのものもあるんだったな」
「そうそう! チョコまみれのおいしかったからさ、そっちもいいなーって思ったんだけど」

 やっぱり王道にバニラとココアだよね。
 そう言った巣鴨は、鞄から大袋を取り出す。いつだって変わらないパッケージを見た晶は、夕飯を食べたらな、と皿をこたつの上に並べていく。わかってるよ、と言いながら、巣鴨は菓子の袋を鞄に戻す。
 サラダに焼いた肉、米と湯を注げば完成の味噌汁が並んだ食卓を前に、二人は食前のあいさつをする。味噌汁を啜る巣鴨に、晶は声をかける。ん、と返事をした巣鴨に、彼女はカントリーマアムなんだが、と質問をする。

「ホワイトデーか」
「! ごっほごっほ……」
「すまん。むせかえらせるつもりはなかったんだが」
「いやいや……ええ……ていうか、晶ちゃん、今日が何の日か知ってたの……」
「まあ……職場のご婦人がな」
「あー……そういうことか……そうです……そのつもりで買ってきたんだけど……あれ? じゃあ、先月のチロルって」
「あれもそうだな」
「そうだったんだ!? あー、よかったー! 俺の勘違いじゃなかった! よかった!」

 だったら、もっとこう、ホワイトデーらしいもの買ってくればよかった!
 そう叫んだ彼に、すまない、と晶はラム肉を頬張りながら謝罪をする。どうしてチロルだったのか、と巣鴨が訪ねれば、晶は珍しく目線をそらす。おや、と思った彼は、言いにくかったら別にいいんだけど、とラム肉を白米の上に乗せて、勢いよくかきこむ。

「まあ、なんだ。少し気恥ずかしくてな」
「晶ちゃんにもそういう概念あるんだ……」
「あるが? 私をなんだと思っているんだ」
「いや……だってさぁ……ほら……普段の夜を思い出してみてよ……」
「食事時に思い出していいのか?」
「いや、だめです!」

 ご飯中にえっちな話をするのはねえ、よくないと思います!
 顔を真っ赤にした巣鴨は、箸を取り落として叫ぶ。ずれてもいない眼鏡の位置を直してから、そういうのを言う晶ちゃんにはカントリーマアムあげないからね、と赤い顔も冷めぬままに白米と肉を咀嚼する。もごもごと食べる彼に、サラダも食べろ、と晶は指摘する。食べるよぉ、と口の中に米が入ったまま返事をする彼に、食ってから喋るように晶は言うと、自分の分のサラダにドレッシングをかけるのだった。

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