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スプーンは存在する ~今だからマトリックスを再考したい~

僕らの世代(現在のアラフォー)では、映画「マトリックス」から思想的な影響を受けた人は、かなり多いのではないだろうか。今一度、あの世界観について考え直してみたい。まずは復習から。

「マトリックス」の世界では、ずっと以前に、人類が機械(コンピュータ)との戦争に敗北している。だが、コンピュータは、人間を絶滅させたわけではなく、エネルギー源として活用するため、脳に電極をつなぎ、培養液の中で「飼育して」いる。電極を繋がれた人間たちは、自力でその事実に気づくことは不可能で、コンピュータの用意したサイバー空間(20世紀文明社会)を現実だと信じて、「普通に」生活している。
主人公のネオは、サイバー空間の外側からコンピュータと戦う、いわゆるレジスタンスに、電極を外されて、現実を知り、戦いに参加することになる。

There is no spoon.

ネオと「預言者のこども(※)」との会話より。
(ネオは意識の力だけでスプーン曲げを試みている)

子供「曲げようとしても、曲がらないよ。そんなことは無理だ。真実をみるんだ」
ネオ「真実とはなんだ」
子供「スプーンはないんだ(There is no spoon.)」
ネオ「スプーンがない?」
子供「曲げるのはスプーンじゃないよ。自分自身だ」

この会話に、マトリックスの世界観が現れている。つまり、目に映るもの、聞こえるもの、すべてはコンピュータの用意したサイバー空間で、脳に送られた電気信号にほかならない。そこには、自分自身の肉体も含まれるし、物理法則すら含まれる。だから、電極を外されて、外側からサイバー空間に「侵入」しているネオたちは、(十分な理解と意思があれば)物理法則すら捻じ曲げることが可能なのだ。スプーンは存在しない。スプーンは存在しているという信念が曲がれば、目の前のスプーンも曲がるのだ。

スプーンがないことは真実なのではないか

この件が映画のワンシーンにとどまらず、我々世代の価値観に強い影響力を持ったのは、「現実世界でも、スプーンは幻想なんじゃないのか」と思えたからだ。脳科学はすでに、我々の感覚(五感やそれに含まれないあらゆる感覚)は、脳細胞の電気信号だということを発見している。

目の前にスプーンがある。しかし、これは正確に言えば、脳の電気信号が、脳内でスプーンの映像を作り出しているだけである。本当にスプーンがあるのかどうかは、誰にもわからない。自分の脳に電極が繋がれていると真剣に思っているわけではない。だが、電極がついていようがいまいが、この事実に変わりはない。

そして、これをさらに一般化するとこうなる。

人間が認識する一切のものは、脳の電気信号が作り出す妄想のようなものだ。人間がその真偽を知ることは絶対にない。
あらゆる物事の真偽も判別できない。判別行為もまた、電気信号だ。善悪正邪も同様。全てが真偽不明である以上、我々は信じたいものを信じる以上のことはできない。

ん?誰もそこまで思っていないだろうか??しかし、僕の知る限りでは、この価値観を完全に体現している世界がふたつある。
ツイッターと国会(与党答弁)だ。

しかし、実際にスプーンは存在するのだ

結論から述べると、スプーンは存在する。ツイッターと国会は間違っている。だが、論拠を詳述するにはあまりに文字数が多くなるし、なにより僕の文章スキルが足りない。ここでは、マトリックスの導き出した理論(哲学的はニューロ中心主義)の根本的なエラー(パラドックス)をひとつ示すにとどめたい。

「我々の認識のすべてが電気信号の妄想だということが真実であるとする」ならば、少なくとも、この理論について、真偽の判定を下したことになる。そうでなければ、すべてが電気信号の妄想であるというテーゼ自体も、真偽不明としなければならない。
すべては真偽不明だというのなら、「すべては真偽不明だ」という理論もまた、真偽不明である。

人間の認識が、脳の電気信号であるということは紛れもない事実だ。だからといって、スプーンが存在しないというのは、あまりに飛躍しすぎなのだ。スプーンは存在するし、普遍的な人間性(ヒューマニズム)も存在する。我々の人生は虚構ではなく実在的なものだし、意味も意義も存在するのだ。

(本文は、マルクスガブリエルの哲学を僕の理解の範囲でマトリックスに応用したものである)

(※)問題のシーンの子供について、正確な表記がわからなかったので、「預言者のこども」とした。親子という意味ではない。


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