涙の意味。
動物界で、涙を流す、或いは鳴く動物は多く見かけるが、涙を流しながら鳴くものは殆ど存在しない。だから同行動はヒト固有の、進化上の理由がそこには存在するはずだ。
まず考えつくのはアピールだ。
鳴く行為は周囲の同族へ何らかのシグナルを発するもので、ヒトは言語を発明したことで多種多様かつ極めて複雑なシグナルを発することができるようになった。だが涙は、対象が傍にいない限り流す意味が無い。最初のヒトはきっと、涙を流さずに鳴いていたのだろう。
ところがヒトは、虚構のシグナルも思いついた。つまり嘘だ。
嘘をつくことで他個体よりも優位に立てる経験を経たことで、嘘もシグナルに混ぜるようになった。すると、シグナルの信頼度が下がる。どうするか。
涙を流す行為が生み出されたタイミングは、おそらくここにある。近接の他個体に感情を伝播し、自身のシグナルが本当であると認識させるためだ。先に言語というシグナルがあり、しかし嘘によりシグナルの価値が下がる。その補強のため、そして何よりも自身に近接する個体らを自身の味方にするため、涙を流し始めた(涙を流す個体がより優位に立てるようになった)のだろう。
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いま述べた推測は、おそらく皆何も云わずとも理解をしている。だからこそ「嘘泣き」という言葉がある。そう、目的のため、感情に依らず涙を流す行動だ。ヒトは、涙ですら嘘をつくようになった。
男が泣けないという理由の根源はここだ。迂闊に泣けば、それが真実か否か、本心からのそれか否かをまず周囲から疑われる。嘘泣きであれば信頼は失われ以降、様々な侮蔑や嘲笑を浴びるようになる。「男のくせにすぐ泣く」という揶揄を一度は聞いたことがあるだろう。
男は、女にも増して他者からの信頼を失っては生きてゆけない。確実に排除の対象になるからだ。厳密な意味では生きてゆけるにしろ、その後の生活に困難をきたす。故に、それらのリスクを顧みない、周囲からの厳しい審議にも耐えうる「男泣き」には相当の価値がある。
女の涙については、そこまでの堅牢さを求められなかった。嘘泣きでも許されてきた。勿論、性的価値の大きさが相当の理由になるだろうが、男女不平等の世界の中で保護される側の性であったことも大きい。自身の保護対象であれば、それが嘘泣きをしても多少は不問にするだろう。
逆に考えてみると、嘘泣きをする度に厳しくあなたを詰問する男を、あなたは信頼するか、そういう男に女は魅力を感じるか。まず、敬遠されるタイプだ。
だが、それが通用するのも家庭の内までで、相手との関係が離れるほど女の涙にも堅牢さが要求されるようになる。利益共同体、いわゆる企業の中では、女と雖(いえど)も迂闊には泣けなくなる。ましてや嘘泣きをすれば男同様に、周囲から敬遠されるようになりかねない。
そう考えると、涙とは家族間の信頼を醸成する目的で発せられるようになったとも考えられる。涙を観測できる、常態で近接する個体とはまさに家族であり、涙を流す個体がいる家族が、そうでない個体ばかりの家族よりも生存確率が上がったことで選別された、淘汰に生き残った可能性はあり得る。
また、子供の嘘泣きは他兄弟よりも自身を優遇させる(親に、自身へより多くのリソースを提供させる)ため、と考えれば辻褄も合う。
……意図していなかったものの、「女子供」という言葉の意味をも掘り起こしてしまったようだ。つまり、この揶揄は泣ける存在のことを意味していたのだ。
涙は、その本質では同意と保護を求める。問題とされた件のエントリではそこまで突き詰めて考えていなかったようだが、子供が泣く行為自体を叱責する家庭は、信頼関係の構築に失敗しやすいように思われる。また、男が泣けないのも、自身が"与える者"でなく"求める者"である意味に取られてしまいかねないからだ。
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映画などの創作物を鑑賞して涙を流すのも、感情をシグナルとして発している以上、当人は知らずとも周囲に共感の要求を発していると見做せるが、当人が権力者でなければさほど問題にもならない。
ある環境下での権力者が流す涙は、批判を封じる。
彼の涙を批判する者はすなわち、敵対者であることを周囲にアピールすることになる。面白いのは、権力者という立場が涙で保護を求めるという矛盾の働きが、周囲の者に立場の明確化を要求することになる、という構造だ。
忠于祖国、指導者様の涙にこの身を捧げます。傍から見れば滑稽だが、家族同様の結束を求める彼にとっては真剣そのものだ。
権力者が涙を流したら、支持者らも涙を流さなければならない。
この構造をそのまま水平移動させれば、ポリコレという権力を握る者が流す涙は同様に、批判を免れるべきだとなろう。
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最初に挙げたエントリーが暗示するように、男女平等とは、男女それぞれが発するシグナルもその価値が平等であることが要求される。
しかし、涙の根源は家庭にあり、家庭とは遺伝子の働きにより生み出される、男女不平等の天守閣のようなものだ。男女平等は必然的に、これまでの「家庭」という概念を破壊せざるを得ない。そして家庭が、社会と同等なまでに"平等化"されるなら、それは家族ゆえの信頼すら審議の俎上にあげかねないように思われる。
だから僕は、男として、涙くらい赦してやれ、と思った。
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