【大河ドラマ連動企画 第38・39話】どうする◯◯(内藤正成・豊臣秀次)

第38話感想

マジで何しに来たんだ足利義昭…。俗物の癖になんか良い事言って帰ってくし。ただ、ドラマの構成上、頂点に立つものの孤独をあれだけ説得力を持って説明できるのは彼しかいないのも事実である。今回ピックアップされたが、彼は4年後の慶長元(1597)年に病死するため、おそらくこれが最後の出番であろう(次話で出るかもしれない)。また、今回同様にピックアップされた服部半蔵も文禄の役が最後の出陣と言われており、義昭同様慶長元年に死去するため、彼も出番は終わりだろう。最後までどこか締まらないキャラクターだったが、史実では鑓働きに優れ「鬼半蔵」の異名を取り、徳川十六神将にも数えられた名将である。ドラマ内ほどは「武士コンプレックス」は患っていなかったのは間違いないだろう。

さて、服部半蔵の本名は「正成」だが、徳川十六神将には彼と同じく「正成」の名を持つ名将がいる。今回の大河ドラマでは残念ながら登場しないが史実でも大いに活躍したその人物の名前は「内藤正成」である。

どうする正成(内藤正成)

内藤氏もまた松平氏の譜代とされるが、その出自ははっきりしていない。藤原氏秀郷流で周防に土着した系譜と同じ出自とされる(大内氏の名臣・内藤隆春などが知られる)が、詳細は不明である。
少なくとも内藤行俊(正成の四代前)の頃から松平氏に仕えたとされる。正成は宗家・清長の甥に当たる人物である。内藤氏は武勇をもって鳴らす人物が多いが、正成は特に弓の名手として高名であったようで、15歳の織田信秀との戦の時点で弓の逸話が出てくる。翌年の小豆坂の戦いでは弓で200人以上を狙撃、三河一向一揆では家康方に属し、舅の両膝を弓で射抜く。wikipedeiaでは「要出典」とされながらもその他にも多くの弓に関する逸話が残されている。また有名な逸話として、二俣城の戦いの際に浜松城守備を行っていたが、主君家康の不意の帰城に際し、家臣・本多忠勝による開門要請を頑なに拒み、家康自身の命令を受け、顔を確認してようやく開門したという慎重ぶりを見せた、というものがある。家康自身のほか、石川数正ら同僚の信頼も篤く、徳川家臣団でも重要な役割を果たしたからこそ、十六神将に数えられたのである。
家康の関東移封後、彼には5000石の領地が与えられた。大名にこそなれなかったが、彼の忠義に報いたのである。その後、子孫は一度改易の憂き目になるも同じ一族が領地を継承し、幕末まで命脈を保った。ちなみに正成の息子も正成であり、地味にややこしい。

その他の内藤氏であるが、まずは広忠の庶子とも伝わる内藤信成が挙げられる。内藤義清に育てられた信成は正成同様大いに活躍し、三方ヶ原の戦いでは本多忠勝と共に殿を務め全軍をまとめつつ撤退に成功。家康からは駿府城を任されるなど信頼が厚かった。宗家は義弟(義清の実子)が継ぎ、その後延岡藩、挙母藩、湯長谷藩主となっている。
ちなみに、湯長谷藩は「超高速!参勤交代」のモデルとなっている。

内藤忠政(正成の弟)の養子となった内藤清成は秀忠の傅役に抜擢、関東行政を支え、高遠藩主となる。ちなみに、この内藤家の屋敷の土地を一部返上する形で甲州街道に「内藤新宿」が設置され、のちの新宿の基盤となる。
忠政の子からは鳥羽藩主、岩村田藩主が出ている。

その他、多くの旗本が内藤氏から輩出されている。家康の「どうする」を支え続けた一族であった。

第39話感想

秘技・えびすくいと徳川家臣団の想いを伝えて静かに逝く酒井忠次。「殿からの陣触れ」とありもしない戦準備を始める忠次にそっと寄り添い、鎧を着せる奥方様の優しさもあって、三河家臣団を象徴する名将の静かな最期だった。

一方でどこまでも見苦しく、惨たらしく死んでいった秀吉。唯一の救いは家康と本音で語り合い、天下を託していけたことか。家康の事だから、秀頼を無下にはしたくないし、しないと思う。そんな秀吉と家康の想いを踏みにじるのがもう心が壊れている茶々。でも最期の感じだとやっぱり本当に秀吉の子だったんだろうな。

いよいよ秀吉が死に、家康が動くべき時が来た。残りの尺がひたすらに心配である。先日行われた講演会で演出統括と歴史考証が揃って開き直ったコメントを出したという。公式が話をまとめる努力を放棄するのはいかがなものか。あるいは「脚本家」という「天下人」に何も言えなかったのか…。

今回は前回一瞬顔見せしたものの特に大きく取り上げられないまま家康によりセリフ死させられた豊臣秀次を扱おうと思う。

どうする秀次(豊臣秀次)

彼ほど、秀吉に人生を翻弄された人物もいない。豊臣秀次を評するならそう言う他あるまい。秀次は秀吉の甥に当たる。すなわち、秀吉の姉夫婦の子供である。父親の出自ははっきりしていない。武士はおろか、足軽ですらないようで一説には馬丁であったという。数少ない親族として秀吉には外交に利用されており、4歳の時には調略した宮部継潤の養子・宮部吉継と名乗る。ちなみにこの時吉継の傅役となった宮部家の家臣が田中吉政である。
その後、宮部継潤が秀吉の与力に組み込まれ、秀次は羽柴家に戻る。しかし、今度は四国政策の一環として三好康長の養子になり、三好信吉と名前を変えることになる。山崎の戦いの直前には池田恒興の娘との婚約が成立。これにより清須会議における親秀吉派の形成に貢献した。その後、羽柴信吉へと復姓し、天下人一門としてようやっと順調な出世をするかと思いきや苦難は続く。小牧・長久手の戦いで自らが大将となって率いた奇襲軍が壊滅的敗北。舅・池田恒興、元助親子、森長可など多くの戦死者を出してしまい秀吉にこっぴどく叱られている。その後の戦ではそれなりに武功を立てなんとか挽回。秀吉の関白就任に際し羽柴秀次に改名する。近江八幡の大名となるが秀吉や宿老たちの指図がほとんどでありなかなか自由な差配を行える立場ではなかったようである(とは言え、徐々に成長した姿をみせる逸話も散見される)。ともあれ、次第に成長、出世し小田原征伐・奥州征伐の後に旧織田信雄領も与えられ100万石の大名となる。秀吉の嗣子だった鶴松や弟の秀長が死去したことに伴い、後継者とみなされ秀吉の養子となり、関白を後継することとなる。ここにおいても秀吉の影響は依然として大きかったが、独自に国内統治を差配する立場として秀次は懸命に励み、ようやっと彼の苦労が報われたかに見えた。しかし、茶々の再度の懐妊が判明、秀頼が生まれると秀吉は次代を秀頼にしたいと考えるようになる。秀次は心身に不調をきたしながらも表面上は友好な関係を維持していたが、翌年突然謀反の疑いが生じ、高野山へ追放。そのまま切腹となった。

当時は乱行や謀反、讒言などの説が信じられていたようだがいずれも根拠に乏しく憶測の域を出ない。私個人は秀吉の晩年の評価が低いこともあり、結局後継問題に拘泥した秀吉の暴走と判断している。
これに伴い、多くの大名が連座・失脚することになった他、秀次の妻子が処刑される。最上義光の子・駒姫が会ったこともない秀次に連座し処刑された逸話などは有名である(残念ながら逸話にとどまらず史実である)。

秀吉の親族として生まれたばかりに政治の道具に使用され、若くして命を散らすことになった秀次。彼には果たして「どうする」と決断する選択肢は存在したのだろうか。

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