【大河ドラマ連動企画 第44話】どうする◯◯(家康の息子たち)

 とうとう於大の方、徳川四天王も全員鬼籍に入り、どうする家康初期メンバーはほぼ全滅。偽ホンダだけはくたばらずにわーわー言うとります。あっジャイアンも生きてた。
 あまりに何もなかったにしても一気に10年分をすっとばすのはいくらなんでも無茶がすぎる。できれば内政パートをトンチキ回とかでも良いので1回欲しかった。まぁ、脚本の尺なんて基本とほまちだから是非もないよネ!
成長著しい秀頼といよいよ動き出す家康。最終章が始まる。

 今回はおそらく今後もドラマに登場しないであろう徳川家康の息子たちについて語ることにしよう。
 家康の息子で特に有名なのは悲劇の長男・信康、苦労の次男・秀康、凡庸な三男・秀忠と御三家の九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房である。四男~八男までがすっぽり抜けるのが印象的である。ドラマで取り上げられていた長男~三男は簡単な確認程度に留める。ご容赦いただきたい(本作の解釈に対して私見を含んだ解説を書くとノイズにしかならない)。

長男・松平信康

 家康の正室・瀬名の産んだ唯一の男児。家康の嫡男として信長からも偏諱を受ける程期待されるが、武田勝頼と密通したとの疑いをかけられ、生母・瀬名共々処罰され自害した。信康については処刑に関わった者に辛辣な言葉を投げかけたエピソードや、関ヶ原の戦いにおいて生きていて欲しかったと呟いたエピソードが有名である一方、近年は信康事件の真相として親子間の対立とする説もあり、その関係はなかなか複雑である。

次男・結城秀康

 お万の方唯一の子にして、家康唯一の庶子。正室である瀬名の承認を得られず浜松城を退去、本多重次の庇護下で生まれた。その立場上、後継者となることはできず、豊臣秀吉、後に関東の名族結城晴朝の養子となった。勇猛な性格で知られ、家康にも信頼されていたが、秀忠の将軍就任を聞き悔し涙をこぼしたとの逸話もある。越前に移封されるがその後慶長12(1607)年、病死(つまり今回の中でひっそりと病死。最後のセリフは秀忠に「おめでとうございます」…)。

三男・徳川秀忠

 お愛の方の子。家康の嫡子として徳川宗家及び将軍職を後継。どの作品でも父とは比べ物にならない凡庸な人物として描写されるのが常となっている。今作でも多分に漏れず、素直で人の言うことを信じる凡人である。だが、秀忠のこの凡庸さはまさしく、若き日の家康の性格を反映したものであり、同時に為政者に欠かせない資質の一つである。秀忠は父親が成した天下統一という途方もない「創業」を継ぎ、「守成」するという難事を滞りなくやり遂げた。この難事を成し遂げただけでも秀忠の「非凡なる凡庸さ=優秀さ」がわかるだろう。家康が今回かなり厳しく当たっていたが、それは彼への期待の裏返しと言える。家康による10年近い親政を受けたのち、2代将軍として内政を固める。そして同様に子・家光に大御所として帝王学を授け、世を去った。個人的な予想では家光=小栗旬である。

四男・松平忠吉

 秀忠の実弟。天正8(1580)年生まれなので秀忠の1つ年下にあたり、同じくお愛の方の子である。翌年に松平家忠が病死したことに伴い、東条松平家の名跡を継ぐことになる。当初の名乗りは松平広と徳川家から1文字ずつ偏諱を受け、忠康である。家康からは愛された様子も伝わっているがこれは信康事件の影響も少なからずあるのだろう。井伊直政の娘を妻に持ち、直政・平岩親吉の後見を受けており、嫡子・秀忠の弟としてその補佐を期待されていたと思われる。実際、関ヶ原の戦い後には尾張藩主に就任しており、のちのいわゆる御三家の一つにしようと考えていたのは間違いない。しかし、後見が直政だったのが一つの悲劇である。関ヶ原の戦いにおいて撤退する島津を追撃した際に直政共々負傷。そこから体調を崩しがちになり、慶長12(1607)年死去。戦場で島津に関わってはならない。彼には嗣子がなく、直系としては断絶。尾張藩は弟の義直が引き継ぐ。

五男・武田信吉

 意外と知られていないのが、五男・信吉である。母は穴山信君の養女。彼が生まれたのは天正11(1583)年。本能寺の変、伊賀越えは終わっておりすでに祖父・信君はこの世を去っていた。さらにその子・信治も天正15(1587)年に死去。武田氏の血縁として名跡を継いでいた穴山氏が断絶してしまったことに伴い、信吉は武田氏の血縁から跡を継ぐ。関ヶ原の戦い後に常陸に入り穴山氏旧臣を中心とする武田遺臣を付けられたが、慶長8(1603)年に病死。残念ながら穴山武田氏は再び断絶した。

六男・松平忠輝

 茶阿局の子(大変ややこしいが、本作で大活躍の阿茶局とは別人である。)。兄・武田信吉とは9歳離れているが、この間は秀吉の妹・朝日姫が正室だった期間である。更に書物により出生場所、出生年、果ては出生日まで諸説あり、謎の多い人物と言える。親の身分が低かったため、幼い頃は皆川広照に養育されている。皆川広照は北関東の大名で本能寺の変の前に織田氏・徳川氏と連携しており家康とは親交があった。天正壬午の乱の後、北条氏に敗れ臣従するも小田原征伐後に家康家臣となっている。
 慶長3年(1598)年に伊達政宗の娘・五郎八姫と縁組(作中でも描かれていた、勝手に縁組シリーズの一つ)。慶長4(1599)年には弟・松千代が病死したことに伴い長沢松平氏を継承する。慶長10(1605)年には秀忠の名代として豊臣秀頼に面会。彼も秀忠の補佐役としての活躍(特に伊達氏の縁戚という立場は、北日本への牽制としても機能しうるか)を期待されていたと思われる。
 しかし、慶長14(1609)年になると附家老の皆川広照や古くからの家臣たちから不行状を家康に訴えられている。この際は逆に家老たちが処罰されている。その頃から不穏な動きが多く、大坂の陣でも命令を不服とするなどしたために家康により戦後に面会禁止令を出されてしまう。家康の臨終の際にも生存している息子の中で唯一呼ばれず、最後まで拝謁できなかった。その3ヶ月後の元和2(1616)年7月、秀忠により改易を命じられ、流罪となる。そのまま配流先の諏訪で天寿を全うした。彼の死時、徳川将軍は第5代・綱吉となっていた。

七男・松平松千代

 忠輝の実弟、茶阿局の子である。生まれてすぐに長沢松平家当主・松平康直の死去に伴いその家を継ぐこととなったが、わずか6歳で病没した。彼の経歴については「忠輝と双子の」とする説や、長沢松平家は継承せず、後に触れる平岩親吉の養子になったとする説もある。忠輝同様、出生が不明な点が多い。

八男・松平仙千代

 お亀の方の子。元々は竹腰正時(西美濃十八将の一人である竹腰氏の一族)に嫁したが、夫と死別。石川光元の側室となるが、お家騒動の火種になってしまい離縁、その後家康に再嫁した異例の経歴を持つ。
 平岩親吉に嗣子がいないことを憂いた家康の命令で親吉の養子となったが、6歳で病没。親吉の家が断絶したことは以前に少し触れたとおりである。ただし、これについては異説があり、上記にもある通り、養子となったのは松千代とする説がある。これについては忠輝、松千代、仙千代のwikipedeiaページ全てに記載がありおそらく同一人物が主張していると思われるが、御三家筆頭の家系の兄を養子にするのは不自然と言う言い分もある程度の妥当性がある。ただし、この時点では松平忠吉が存命であり、序列から言っても徳川家康-秀忠を基本とする宗家、忠吉、忠輝の分家、結城秀康、武田信吉といった外戚と手駒は十分である。この時点では義直が御三家筆頭になることは既定路線とは言えないので、結果論としか言いようがない。

九男・徳川義直

 仙千代の弟でお亀の方の子。柳生利厳から剣術指南を受け、新陰流第4世を継承したというから相当の手練と思われる。
 元々は甲斐を与えられ、平岩親吉を傅役につけられている。もしかすると、御三家の一つが甲州藩となっていた未来もあったのだろうか。
 しかし、兄・松平忠吉の急死に伴い彼の清洲藩を継承、後に名古屋城を築城し尾張藩を創始する。子供の頃には疱瘡を患うが軽症で平癒。この際には家康が消息(手紙のこと)でその症状が軽かったことを非常に喜ばれている。この経験があったからなのか、家族の体調不良にはすぐ駆けつけているようで、寛永元(1624)年、家光重病の知らせで上京、勝手に来たことを快癒した家光に譴責されている他、寛永8(1631)年、兄・秀忠の病気の際もすぐに出立し大磯まで急行。秀忠自ら書状を送り、帰国させられている。徳川御三家の中でも筆頭とされた一方、江戸時代を通じ幕府の施政方針に逆らうことも度々であり、結果として宗家断絶の際に一度も将軍を輩出することはなかった。

十男・徳川頼宣

 お万の方(注意:次男・結城秀康の母とは別人)の子。慶長8年、わずか2歳で兄・武田信吉の死に伴い、水戸藩20万石を継承する。加藤清正の次女を正室に迎えている。元和5(1619)年に紀伊和歌山藩に転封、紀州徳川家を創始する。慶安の変において由井正雪が頼宣の印章文書を偽造したために謀反の疑いをかけられる、結果として和歌山城の増築を中止するなど不遇な点も多かったという。剛毅な性格であり、不行状により家臣に諫言される逸話もあるがその後すぐにその不行状を改める逸話ばかりであり、聡明な君主の一人であったと思われる。紀州藩は実に2度にわたり将軍を輩出した。

十一男・徳川頼房

 お万の方の子、頼宣の弟で家康の末子である。彼が生まれたのは慶長8(1603)年、家康将軍就任の年である。頼宣の転封に伴い水戸藩を継承。後の御三家の一つとなる。ここまで述べた通り、忠吉、信吉の急逝がなければこうした変化は起きていないため、将来的に御三家として「尾張(忠吉)・甲斐(義直)・越後(忠輝→頼宣)」となっていたか、御四家に結城秀康・武田信吉を加えた御六家となっていた可能性もあるのではないだろうか。この世界線でも家康に嫌われた結果排斥される忠輝。
 若い頃の殆どを家光と江戸で過ごしている。その後は水戸にいたが、最終的にまた江戸詰が多くなり、水戸藩主は江戸常住となることが通例となった。他の兄弟や家光の兄弟との関係が微妙であったため、家光は頼房を厚く信頼。「天下の副将軍」の異名はここから生まれたと言って良い。頼房の子こそ、水戸黄門諸国漫遊記で有名な徳川光圀である。
 水戸徳川家は天下の副将軍と言われる一方で尊王思想も篤く非常に特殊な立場で江戸時代を過ごす。最後の将軍・慶喜を輩出(御三卿・一橋家の養子からの立場ではあるが)し、徳川幕府に幕を引く。慶喜は個人的には好きではない君主であるが、誰であっても困難であっただろう江戸幕府の終焉を決断、実行したという点ではやはり英邁で、将軍が最も頼りにした家と言って良いだろう。

家康の息子たちもまた、新たな時代の中で「どうする」と決断を迫られていく。その選択が最終的に300年の繁栄として結実したのが、江戸幕府である。

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