【大河ドラマ連動企画 第42話】どうする直昌(田丸直昌)

平岩親吉がメインキャストになった事に、正直疑問を感じていた。こう言うと親吉ファンに怒られるかもしれないが、親吉の知名度はそこまで高くない。本多作左衛門重次や大久保彦左衛門忠教と言った、本作でキャスティングされていないが有名な武将は他にもいる。
今回、その疑問が氷解した。元忠と共に家康の小姓として今川時代から家康を支え続け、元忠の忠義を最もよく知っているもの。そして、信康の傅役として信康事件に最も近くで関わり、責任を感じている中で関ケ原の戦いまで生き延びているもの。この2つを充足するのは親吉しかいない。彼もおそらくクランクアップしたようなので軽く触れると、親吉は本能寺の変後に治めていた旧領・甲斐に関ケ原の戦い後に復帰。その後、徳川義直の側近となり最終的に尾張に移住。犬山藩主として最期を迎える。家康、信康、義直と徳川家の当主に仕え続けた忠義の将、それが平岩親吉である。

と、ここで終わってしまってもよいのだが、せっかくなのでもう一人、この小山評定において大きな「どうする」に立ち向かった人物を取り上げようと思う。
小山評定においては本編でも見られた通り事前に調略を受けたと思われる福島正則の所信表明を期に、山内一豊・黒田長政・藤堂高虎と言った諸将が家康への加担を表明。場は一気に親家康・打倒三成の空気となった。こうした状況下では日和見していた者はもちろん、三成につこうと考えていた者も言い出しにくい雰囲気であっただろう。そうした中で空気を読めない、いや読まないで三成への加担を表明した唯一の武将がいる。田丸直昌である。


田丸氏について

田丸氏は元々北畠氏の庶流とされる。室町時代後期に北畠政郷の四男・顕晴が度会郡の田丸城を有し名乗ったとされる地名姓である。しかし、顕晴は家臣により謀殺され、具忠が跡を継ぐ。この具忠については顕晴の実子以外に、政郷の子、材親(政郷の三男、顕晴の兄)の子、晴具(材親の子、顕晴の甥)の子説があり、この辺りの家系図ははっきりしないのが実情である。この具忠の子が直昌である。

田丸直昌の前半生

田丸直昌は天文12(1543)年に生まれる。家督は父の隠居に伴い継承したが、織田信長の伊勢侵攻を受け降伏。織田信雄の傘下に加わる。
この辺りについて詳しい記述は残っていないが、織田信長の伊勢方面への侵攻の足取りと併せて考えると織田氏と北畠氏の和睦の成立まで北畠側についていたと考えてよいだろう。
信長は美濃攻略に前後して伊勢攻略を開始する。同時期に美濃から脱出した斎藤龍興が伊勢に逃亡したことも関係している。当時の伊勢は北勢、中勢、南勢に大きく分かれており、北勢は「北勢四十八家」と呼ばれる小豪族が割拠した状態、中勢は長野氏および関氏、南勢は北畠氏が中心に勢力を保っていた。北勢から侵攻した信長軍は楠城の攻略後戦線が膠着したため謀略戦に切り替える。北勢の最大勢力・神戸氏に対して三男・信孝を、中勢の長野氏に対して弟・信包を、そして南勢の北畠氏に対しては次男・信雄を養子に入れる形でそれぞれ傘下に収めた。この経過の中で最後まで田丸城については言及がないこと、また田丸城は北畠氏の中心拠点だった大河内城よりも南東に位置していることを加味するとこの北畠氏との和睦を機に信雄に臣従したと考えて良い。

しかし、この養子を用いた伊勢攻略は当然長野・北畠氏家臣の反発を招く事になり、敵対勢力との密約や叛乱が横行する。これを重く見た信長は北畠氏の抹殺を決断。天正4(1576)年に三瀬御所および田丸城で北畠氏一族を集め、謀殺。田丸城での襲撃には直昌や前回紹介した土方雄久が参加した(三瀬の変)。

これにより信雄は北畠氏の後継者としての地位を確立。伊勢簒奪を成し遂げた。その後も信雄の重臣として活躍した直昌だったが、本能寺の変後、信雄と羽柴秀吉が対立すると秀吉に接近する。ここで鍵となったのが、彼の妻である。伊勢は地理的に南近江とも近く、外交関係が確立されている。蒲生賢秀の娘を妻としていたのである。賢秀の子として高名な氏郷が秀吉家臣であり、その伝手で秀吉に接近、小牧・長久手の戦い後はそのまま氏郷の与力となる。その後、田丸直昌は氏郷・秀行の与力大名となったが、秀行の宇都宮転封に伴い独立大名化。川中島、ついで美濃岩村の領主となる。

小山評定での決断とその後

そして冒頭に戻るわけだが、一説には田丸直昌も空気を読まない評定での発言は控えたとされ、評定後に本多正信、徳川家康に面会。「西軍が勝つことはないと思うが、太閤殿下への恩義があるため家康に味方することはできない。所領に帰らせてもらう。」と告げたと言う。敵地のど真ん中で反抗宣言。殺されてもおかしくない状況だが、かえって家康は「義理堅い男だ」と賞賛して快く直昌を返した。
かくして所領に戻った直昌は大いに西軍として活躍し、敗北したが面目を保った…などということはなく大した活躍をすることもなく改易。越後の堀秀治に預けられ、そのまま亡くなった。

そもそも直昌のその後の動向ははっきりせず、所領に戻ったとも、大阪城の守備に向かったとも、あるいは領国に戻れず上野国周辺で小競り合いをしていたとも伝わっている。一説には小山評定に参加すらしていなかった、というものまである。

では、なぜこのような逸話が現代に伝わっているのか。この逸話により最も得をするのは誰か。
一つには田丸氏の子孫である。嫡男・直茂はその後加賀藩に仕え、その子が幕府の鍼科医として代々仕えている。また、次男・直綱の家系が水戸藩に仕え幕末の志士・稲之衛門直允まで連なる。彼らが家伝を紐解くにあたり西軍についた直昌の功績を盛った可能性はある。しかし、大名ならいざしらず、一鍼科医や藩士クラスの人物の家伝が大きく喧伝されるとは思えない。そこで浮かぶのがもう一つの大きな存在である。
すなわち、徳川家康の功績を盛り上げるために彼が利用された、ということである。小山評定において、家康は諸将に進退の自由を保証したが、全員が家康への加担を約束した。このストーリーでも家康の正当性を担保する。しかし、実際には西軍に加担した武将がいた。彼をその場で血祭りに挙げて景気づけとすることもできたが敢えて寛大な姿勢でその忠義を褒め、無事に返した、とすれば家康の仁君ぶりがより強調されるわけである。敵将にも優しく接するプロパガンダを欠かさない家康らしい逸話と言えよう。

かくして一つの「どうする」を誤り、独立大名の地位から転げ落ちた男は、何故か義理堅さを示唆する逸話で後世まで名を残すこととなった。
彼は泉下でどう思っているのだろうか。

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