【大河ドラマ連動企画 第48話】どうする◯◯(残された人々)

一つの作品が、終わった。48回にわたって、ある時は批判し、ある時は賞賛しながら作品を見続けた。家康はとうとう、天下統一を成し遂げ、(予想通り)孤独になった。そのまま死んでしまう結末はあまりに残酷、だからこそ夢の中で、孤独ではなかった頃の何気ない平和な一日を最後に持って来た。これが家康に取って特別な日であったことは実はこれまで各所で仄めかされてきた。瀬名、お愛、阿茶。3人の会話の中に出てきた鯉の話の伏線が見事に回収された。
一方で予想外だったのは小栗旬の正体(?)であった。徳川家光を想定していたが、南光坊天海であった。ただ、考えてみるとこの方がしっくりくる。昨年の「鎌倉幕府の歴史」を学んだ家康、「家康の歴史」を学んだ家光、という構図でも良いが、本作で分かるように家康はむしろ戦乱に塗れた家康の歴史を後代に継承させたくはない。だからこそ、「鎌倉幕府の作られた歴史」を学んだ家康、その歴史を作る男、という構図の方が良い。まさか2作に渡り歴史を作るとは、さすが小栗旬である。
しかし、この天海僧正、「頼朝が本当はどうだったかよくわからん」と言われるとなぜだかわからないが、すごい説得力だ…!

今回は残された者たちのその後を語って締めとしよう。
※作中では松平忠長などスポットで登場した人物もいるが、一部割愛することをご了承されたい。


本多正信:元和2(1616)年6月

家康の懐刀として活躍した本多正信。時系列は少しさかのぼるが、慶長6(1601)年以降、家康の征夷大将軍就任に尽力しつつ、本願寺の東西分裂を画策した。かつて自身が一向一揆に参加していた事もあり、宗教勢力の政治干渉問題には何より敏感であっただろう。その後は幕政を固めるため内政に尽力。大久保長安事件、大久保忠隣の失脚に関わったとされるが確たる証拠はない。本作の正信ならやっていても証拠は残さないだろうし、あるいはやっていなくても風評被害で疑われていそうでもある。
家康が死去すると家督を正純に譲り完全に隠居。家康の死後2ヶ月で後を追うようにこの世を去った。享年79。

稲(小松姫):元和6(1620)年2月

真田信之の妻となり、真田家と本多家、徳川家の架け橋となった小松姫。大阪の陣では信之が病気療養中であったため息子が代理で参陣したのを受けてこれを気遣う書状を送るなど、真田家中でも大きな存在感を示した。後年は薬師如来に帰依し、病死。享年48。

渡辺守綱:元和6(1620)年4月

三河家臣団の数少ない生き残り、槍の半蔵。家康にも言われていた通り、三河家臣団の誇りを後世に伝えた。家康の九男・義直の家老となり、御三家筆頭・尾張藩で重責を担った。享年79。子孫は尾張藩家老や旗本、和泉国伯太藩主など幅広い。

三浦按針:元和6(1620)年4月

家康にイギリスの知識を与えた按針には帰国のチャンスがあった。慶長18(1613)年に来航したイギリス東インド会社のクローブ号の朱印状取得に尽力した按針は翌年のクローブ号の帰国に同行することもできたが、船長と反りが合わず帰国を断念。その後は薄給でイギリス商館の業務を手伝い、日本人の妻との間に子も設けた。しかし、家康の死後、幕府は貿易制限に方針転換。按針は冷遇されたまま晩年を過ごし死去。享年55。息子・ジョセフが2代目三浦按針となるが、その後の一族の消息は不明である。

上杉景勝:元和9(1623)年3月

米沢に移封されてからの景勝は従順に徳川家に従い、大阪の陣にも出兵している。享年69。米沢藩は幕末まで存続。本家断絶の際に奔走してくれた保科正之への恩義から幕末では会津藩寄りの姿勢を取った。

福島正則:寛永元(1624)年7月

大坂の陣では一族が豊臣軍に参戦したのを看過する一方、幕府軍としての従軍は許されず江戸留守居役を申し付けられた正則。嫡男・忠勝は幕府軍に従軍したが、戦後、弟・高晴が改易されてしまう。
家康死後の元和5(1619)年、台風により広島城が損壊したため修復を行ったが幕府に届け出をしていたものの許可が下りておらず問題に発展。川中島高井野藩に大幅減封、忠勝に家督を譲り隠居の身分となる。私はこの1件は幕府による旧豊臣系大名への粛清政策の一環でわざと事務処理を遅らせたのだと思いこんでいたが、調べてみると福島側にも数多くの問題行為があったようである。そもそも、今回の申請の許可が下りなかった原因は前年に、一国一城令を無視して無許可で新規築城したことを隣国の毛利家に指摘され、これを破却するという騒ぎがあったことに由来していたようである。また、今回の一件も修繕した部分の破却を命じられたのに不完全な破却にとどめた事、忠勝を江戸に人質として送るように命じられたのにこれを意図的に遅らせた事があり、これらの反抗的な態度が重なっての処罰となった。
その後、忠勝が早世したことで、さらに領地を半分返上した正則は実質隠居料のみというかつての大大名とは思えない侘しい晩年を送り、死去。しかも、その死に際し、幕府の検死役が到着する前に遺体を火葬してしまったことで残っていた領地も召し上げられ、大名・福島家は改易となった。

亀姫(盛徳院):寛永2(1625)年5月

もみ上げ奥平信昌の妻となった亀姫。長男は宇都宮藩、三男は美濃加納藩主となり、夫とともに美濃に映るが、大坂の陣の頃に相次いで長男、三男、そして夫が病死。亀姫は出家の上、幼くして藩主になった孫たちを支えた。
一説には長男の転封および娘婿の大久保忠常の父・大久保忠隣の失脚について不満を抱き、これを主導したとされる本多正純の失脚(後述の宇都宮釣天井事件)に関与したとも言われるが、真偽は定かではない。

毛利輝元:寛永2(1625)年4月

関ケ原の戦いに伴い大幅減封になった毛利家。加えて当主の座は秀就に譲ることになった。しかし、在国の輝元はその後も権力を持ち、毛利家も二頭体制となった。ただし、輝元は政権のスムーズな移行のため、これまでの輝元を中心とする独裁体制を終わらせた他、大幅減封に伴う家中の混乱収集のため尽力した。大坂の陣後に秀忠に面会し謝意を伝え、元和7(1621)年に正式に秀就に家督を譲った。織田信長、徳川家康と対立しながら改易を免れた中国地方の覇者はその5年後に世を去った。

江(崇源院):寛永3(1626)年9月

姉・茶々の菩提は、茶々が浅井長政を弔うために建立した養源院で弔われたが、その後火災で消失した。その際に、江が再建を幕府に要請したという。第3代将軍・徳川家光、そして後水尾天皇の中宮・和子を産み幕府と朝廷の橋渡しを担った江は秀忠に先立つ事6年、世を去る。

織田信雄:寛永7(1630)年4月

わーぼーくっ☆和睦作戦が失敗し大阪を脱出した常真入道こと信雄だが、その後は小さな領地をもらい、それでいて自分はそこに入ることもせず悠々自適の生活を送った。家康とは元和2(1616)年正月に面会、駿府での再会を約したが家康の死により果たせなかった。その後も織田家の後継者として厚遇され、平穏無事に世を去った。子孫は織田家の系統で唯一の大名家として2藩が存続、幕末を迎えた。

徳川秀忠:寛永9(1632)年1月

家康の死に伴い、名実ともに政権運営者となった秀忠。最終話のセリフ通り、江戸幕府、そして恒久平和を実現するために「背負う」覚悟を持った秀忠は家康旧臣と江戸政権官僚を併用して積極的に政策を実現。特に西国への大規模転封による全国への譜代大名の配置など江戸幕府を盤石のものにすることに尽力した。天皇家に娘和子を入内させる他、紫衣事件にも介入し、朝廷にもにらみを効かせた。晩年は大御所とし家光を導き、「偉大なる凡庸」と言われた男は立派に政権を安定させる偉業を成し遂げ世を去った。享年54。

金地院崇伝:寛永10(1633)年1月

お笑いコンビ「方広寺」のボケの方。江戸幕府の立法・外交・対朝廷を一手に担う。家康の改葬問題で空海に敗れ一時的に失脚するもその後も諮問機関として重要な政策を執り行った。特に禁中並公家諸法度の制定は朝廷統制に大きく役立った。
その死後、そのあまりに広い職掌は寺社奉行、老中、林家に分割されたほどであった。

初(常高院):寛永10(1633)年8月

大坂の陣の講和交渉で存在感を見せていた初だが、その後は若狭国で静かに夫や姉の菩提を弔いつつ生涯を終えている。

五徳(見星院):寛永13(1636)年1月

関ケ原の戦い後に京都に隠棲した彼女の逸話はほとんど伝わっていない。再嫁することもなく、「岡崎殿」としてその生涯を終えた。

阿茶局(雲光院):寛永14(1637)年1月

晩年の家康を支えた最強ブレーンの一人。和子(秀忠の娘)の入内の際には後見役をつとめ、その功績から従一位を贈位、「一位局」とまで称された。

本多正純:寛永14(1637)年2月

正信共々冴え渡る頭脳で活躍した正純だったが、秀忠付きとなってからは江戸政権官僚とも対立するようになる。そして、先に挙げた宇都宮釣天井事件へと発展する。これは奥平信昌の転封に伴い宇都宮藩を継いだ本多正純による秀忠暗殺計画という疑惑である。これについて釣天井を含めた十一条の罪状嫌疑に正純は明快に弁明したが、追加の嫌疑を提示されこれに弁明できなかった事を理由に改易される。親子共々配流となった正純はその後配流先で実質的な幽閉生活を送り、没した。「嫌われ者」として徳川政権成立を支えた本多正信・正純の系統は「嫌われ者」として改易され、大名家に復帰することはなかった。

春日局:寛永20(1643)年9月

明智光秀家臣斎藤利三の娘、という立場だった春日局は謀反人の娘、という立場ながら数奇な運命をたどり、徳川家光の乳母となった。家光の養育に尽力した彼女の生涯は大河ドラマにもなっている。今作では「神の君 家康」の生涯を家光に語り聞かせる語り部、として全編のナレーションを担った。残念ながら古い時代の解像度が低いせいか、大河ドラマ前半が過剰演出気味となり、一部視聴者の離脱を招いてしまった。

南光坊天海:寛永20(1643)年10月

やたらと説得力のある謎坊主。前半生が不明すぎて麒麟を連れてきたりするのではと言われていたが正体はブラック執権の生まれ変わりだった。
家康臨終後に「山王一実神道」なる謎の宗教を持ち出し、家康の神号を「権現」にした。その後も江戸設計に「風水」や「四神相応」の思想を取り入れた、正体は明智光秀だった、などの奇説が唱えられる他、当時の資料にも伝奇的要素の強い逸話が残っているなどとにかく謎の多い人物であった。紫衣事件などでの処罰者への減刑嘆願でも知られる。

徳川家光:慶安4(1651)年4月

ドラマでは絵を好む若き日の家康そっくりに描かれたが、武芸にもきっちりと興味を示していた。「生まれながらの将軍」の発言が示す通り、江戸時代ネイティブとして江戸幕府政権安定化に向けた政策も多い。ただし、完全な文治政策への転換は次代の家綱を待つこととなる。

宇喜多秀家:明暦元(1655)年11月

関ケ原の戦いに直接参戦した大名の中で最も長寿とされる。八丈島での生活は困窮を極めたようで、漂着した福島家の船に酒を求めた、代官に家族のための握り飯を求めた、などの逸話も知られる。大名復帰の話がなかったわけではなく、元和2(1616)年に前田利常から打診されていたようだが、断り生涯を八丈島で過ごした。子供たちが現地で子孫を作り、「浮田家」として反映した。

林羅山:明暦3(1657)年1月

お笑いコンビ「方広寺」のツッコミの方。藤原惺窩の弟子にして、幕府に朱子学を伝えた林家初代。幕府における儀礼・格式の制定や伝記・家系図の編纂などで活躍したが、明暦2年に妻が死去、翌年に明暦の大火で自宅の書庫が焼失。数日後に失意のまま亡くなったとされる。彼の開いた学問所は後に湯島に移され、昌平坂学問所として発展していく。

真田信之:万治元(1658)年10月

父親と弟が好き勝手するは、徳川四天王の2人に圧迫面接を受けるはでストレスで寿命を縮めることになった信之。父祖の上田から松代へ転封となり、領地の整備に尽力する。長男、嫡孫が死亡したために次男に家督を譲るが、その次男も病死。家督争いでお家騒動寸前になるが、信之が次男の系統を指示、2歳の孫の後見人として藩政を執った。晩年のこの心労も彼の寿命を縮め、同年、93歳でこの世を去る。全然長生きじゃねぇか。

千(天樹院):寛文6(1666)年2月

戦国の世の終わりに翻弄された千姫。秀頼と茶々の助命は叶わなかったものの、秀頼と側室の間の娘は自らの養子にして死罪を免れさせるなど、「豊臣の妻」としての意地と誇りを示した。戦後は本多忠刻の正室となる。徳川四天王の家系という重臣に嫁がせたのは徳川家からの最大限の配慮と言える。ちなみにこの輿入れに関連し、坂崎直盛という大名が死亡する騒ぎになっているが、今回は触れない。
ただ、この結婚生活も長くは続かず、すぐに生まれた嫡男、夫、姑、母が次々と死去。再び寡婦となった千姫は3歳の娘と共に江戸に移り、天樹院と号する。弟・家光とは仲がよく、その三男を養子に迎え養育するなど、幕府に対しても大きな影響力を持ち続けた。坂崎直盛事件での醜聞や淫婦としての悪名を負うことになった彼女だったが、徳川の娘、豊臣の妻として平和な世の中を誰よりも見届け、この世を去った。

1年間を通した今、改めて徳川家康が好きになったか、と聞かれればやはりまだ好きになれない自分がいる。本作の家康はやはり美化されている面も多い。序盤では作品の演出に大きな批判が集まっていたことも事実であるし、折しも主演の所属事務所の醜聞による下世話な俗説も飛び交った。だがしかし、1つの作品として見た時に、大きく作品として破綻せず、歴史作品として無茶な考証はなく、歴史でも特に描くのが難しい大人物を描ききったこの作品は大河ドラマとして良作であったと言えよう。

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