神戸町成立の謎3選

出身地の歴史を調べる、というのは誰しもやったことがあると思う。私は能登半島の出身なのだが、幼少期のほとんどを岐阜県の神戸という町で過ごしている。「こうべ」と書いて「ごうど」と読む、不思議な町である。古くは小比叡村とも呼ばれたこの町は比叡山延暦寺の荘園として発展、それに関連した日吉神社があり、住人は「神人」とも呼ばれている。どうやらこのあたりが町名の由来らしい。その神戸町は大きく4つの小学校区に分かれているのだが、それが
・南平野小学校(南平野村地域)
・北小学校(北平野村および神戸町の一部地域)
・下宮小学校(下宮村地域)
・神戸小学校(神戸町地域)
となっている。まだ調べている最中で確定ではないのだが、北小学校は以前は「北平野小学校」と呼ばれていたと小学校時代に聞いたことがある。
この成立の中で3つの謎が生まれたので、今回はこの部分を深掘りする。

幻の集落・市島

南平野村を構成した自治体の一つに「四成村」というものがあった。この四成村、かなり珍しく地元の地名ではなく「四つの村から成立した」という事実を由来にした村である。その村は和泉村、八条村、青木村、市島村である。このうち和泉村、八条村はそれぞれ現在の神戸町の字に、青木村は隣接自治体の大垣市青木町になっている。しかし、「市島」はそのどちらにも残っていない。さらに、wikipediaおよび神戸町史を紐解くと面白い事実が記載されている。「合併時、市島村は住人のいない集落であった」。住人0にも関わらず、「村」と名のつく集落が存在していたことになる。この市島であるが、元禄十一年美濃国絵図にも記載があるため、以前から存在した集落と見て間違いない。ではなぜ、明治8年には人口が0になっていたのか。もう少し調べると『神戸町史』の別の部分に市島村を取り上げた部分があった。江戸時代の人別帳などを参照すると、慶安元(1648)年には市島村に屋敷を構える者が3世帯あり、周囲の畑を領有していたようである。市島村の大部分はこの時点で周囲にあった和泉や草道島などの住民の畑があったとされる。しかし、江戸時代末期の天保4(1838)年にはすでに村人0人の部落になている。理由は不明だが、3つの部落全てが断絶したわけではないだろう。洪水などにより家屋が破壊され、他集落に移り住んだなどの可能性はあるだろう。
ちなみにこの市島村が存在していなかったらば「四成村」は成立していなかった可能性もある。そもそも四成村は明治初期の合併を促進する流れの中で提唱されている。その中で4か村合併の決め手となったのは市島村が人口0の集落であったことだったとされている。ちなみに、市島村長は和泉村長で、後に南平野小学校の祖とも言える明徳学校の初代校長になる大場氏が兼任していた。

2つの北方

さらに南平野村には不思議な経過を辿った村がある。「北方村」である。平野庄においては「名取領北方村」と「岩村藩領北方村」が江戸時代末期に存在していた。その後市町村の形成に伴い、2つの北方村は合併する。しかし、その後再度分離、名取領北方村は「西保村」と改称し後の神戸町に、岩村藩領北方村は「北方村」と改称し、後の大垣市に編入されていく。
この話、一見すると北方村が一旦合併し、再度分離したようにしか見えない。しかし、現地の地図を見るといかにもおかしいのである。なにしろこの2つの地区、隣接していない。

元禄十一年美濃国絵図にその答えがあった。これを見ると、大垣周辺に「北方」「南方」と書かれた地名が複数存在している。以下、列挙する。
・南方(神戸と川西の間)
 現在の神戸町末守、北神戸駅周辺と思しきところに記載された「南方」。これは対応する「北方」が存在せず、現在も同地に地名が残っていない。代わりに、この古地図に記載されていないが揖斐郡大野町に「南方村」なる地名があったとジャパンナレッジ版『日本歴史地名体系』に記載がある。ちなみにこの古地図においては揖斐郡大野町地域に「瀬古」の地名があるが、これも現在の同地に該当する地名は残っておらず、一方で神戸町内の瀬古に該当する地域に記載がない。誤記と考えても差し支えないが、その後洪水等に伴う河川の流路変更で人々が移り住んだ結果集落の位置が変更となった可能性もある。
・北方・南方(更屋敷の西、草道島の北)
 現在の神戸町西保・南方に相当する。元々このあたりは「西保北方・西保南方」と呼ばれている。戦国期の不破光治、稲葉一鉄、木村重広などが居城として西保北方城があったことでも知られる。こちらがいわゆる「名取領北方村」と思われる。
・北方・南方(加納・奥福島の東、林の北)
 現在の大垣市北方町・中川町に相当する。こちらがいわゆる「岩村藩領北方村」と思われる。

つまり、最初に発生した2つの「北方村」の合併こそがすべての元凶だったのである。場所がバラバラな2つの「北方村」をその由来を無視して合併させたことで不都合が発生、再分裂に至ったのである。ちなみに、この時再度混乱しないように「西保北方」から取って西保村になったわけだが、結果として神戸町内南平野校区には現在、「南方」「東方」はあるものの、「北方」は存在せず、「西方」ではなく「西保」という不思議な状態が生じている。こうして紐解くとわかりやすい。
なお、神戸町史は昭和40年代に編纂されたものであり、当時は「東方」「新西保」は存在せず、また私の家は新興住宅街で跡形もないことがよく分かる。昭和55年に再編纂された新たな神戸町史では「新西保」が出現しているが東方は記載がない。一体いつ生まれた字なのだろうか。新たな疑問が生まれてしまった。

川の向こうの編入地・西座倉

 神戸町が現在の形になるまでには上記の通り、複数回の合併が行われているが、その中で唯一、他市町村から一部編入の形を取ったのが西座倉地区である。昭和29年の神戸町の成立から遅れること6年、昭和35年に揖斐郡大野町から編入している。ここの経緯についてまずwikipediaを紐解くと、そもそも明治22年に西座倉村が成立するも、明治30年に周辺自治体との合併で川合村が成立した。この地域を地図で見ると分かる通り、揖斐川と根尾川の合流地点に当たることが名前の由来である。戦後になり市町村の合併が加速する中、揖斐郡にあった川合村は他の周辺自治体と共に大野町への編入合併を模索する。しかし、川合村南部の地域(旧西座倉村および本庄村、下座倉村域)は神戸町への編入を希望。岐阜県へも具申し却下されるが住民運動は強く、昭和31年には同地区の小学生を全員神戸小学校へ転校させる強硬手段に打って出る。この流れを無視できなくなった川合村、岐阜県は翌年、当該地域に対して分村・神戸町への編入についての住民投票を行う。結果は賛成が過半数だったものの、法定得票数に満たず、分村は否決されてしまった。この後も紛争が激化し、公民館を破壊するなどの事件が発生したが住民と行政の粘り強い交渉により最終的にはこの紛争は解決する。そこで注目されたのが西座倉地区の動向であった。先の住民投票において、西座倉地区は他の地区と異なり、全員が一致して神戸町への編入に賛成であった。この意を汲んだ行政側は西座倉地区に限り神戸町への編入を許可。川合村は大野町に吸収合併されたが、3ヶ月後に西座倉地区が神戸町に編入された。当時は揖斐川に橋がなく陸路での交通には北の平野庄橋を使用する必要があった西座倉地区。しかしこの協議の際に将来的な架橋を検討していたようで、30年後に神戸町域と西座倉地区を直接つなぐ神戸大橋が完成する。
 では、そもそもなぜこれらの地区は神戸町への吸収合併を望んだのだろうか。残念ながら神戸町史を紐解いてもこれらの疑問には答えが出なかった。合併前後の岐阜日日新聞(現在の岐阜新聞)を参照したが、当時は岐阜県と教組の対立が大きな問題になっていたようでこちらに紙幅が割かれている一方、この問題には触れられていなかった。しかし、神戸町史内によると川合村南部地域は大野町の中心域から遠かったため、より近い神戸町への合併を希望していたとされている。

今後も郷土の歴史を更に深掘りできればと思っている。

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