【大河ドラマ連動企画 第26・27話】どうする◯◯

※後追いで追加中

第26話:どうする信茂(小山田信茂)

とんでもないこと言い出したぞこの殿…。前に比べて深謀遠慮が出てきたかと思えばやっぱりまだまだ大局観はない。そんな危うさを見抜く秀吉…。
しかし、あの勝頼がナレ死するとは、もったいない…。と言いたいが、ああでもしないと滅ぼせなかったのだろう。個人的にエモポイントとして押したいのは「最後の一人になっても」という勝頼の言葉に対し、最後に共をする兵が居たことである。史実では家臣からの信を失い、裏切りに継ぐ裏切りで最後は一族のみで寂しく自害した勝頼。本作では最後まで「武田の当主」として認めてくれる部下と共に華々しく散ることができたのである。

今回はそんな武田氏の命運を握った武将を扱う。小山田信茂である。戦国時代好きならすぐにピンとくる人物である。武田二十四将にも数えられる名将であるが、最期のあまりの転落ぶりでも有名である。

小山田氏は桓武平氏の一族であり、昨年の大河ドラマでも活躍した畠山重忠と親戚筋に当たる。しかし、畠山重忠の乱の際に多くが粛清されてしまい、わずかな生き残りが甲斐に逃げ延びたのが甲斐小山田氏の始まりとされる。室町時代から戦国時代にかけて甲斐守護武田氏と婚姻関係を結んだり対立したりを繰り返していたが、最終的に武田信虎の時代に小山田越中守信有が和睦し、協力関係となった。その後、小山田出羽守信有(越中守の子、もしくは弟)、小山田弥三郎信有(出羽守の子)となぜか信有が3代続いた後、その後を継いだのが小山田信茂である。永禄8年に兄である弥三郎信有が死亡し、その後に家督を継承するが、この時点ですでに武田家の当主は信玄になっている。一説には第1次川中島の戦いから先陣を務めた、とされているがこれについては弥三郎信有の可能性が指摘されている。実際に活動が確認できるのは永禄9年からであり、駿河侵攻や北条氏との攻防、韮山城攻略戦などに参加。主に対北条戦線を担っていたようである。三方原の戦いにおいては武田軍の先陣を務め、一説には投石部隊を率いたとされている。

この直後に信玄が病死。家督は勝頼に受け継がれる。長篠の戦いでは撤退を主張したが入れられず、本戦での敗北後は武田勝頼を警護しながら退却している。それ以降は上杉氏との折衝に注力し、御館の乱における一時和睦の成立、甲越同盟の成立に貢献したと思われる。

ところが、この後ついに織田家による甲州征伐が始まる。勝頼は本拠地新府城を放棄、信茂の居城・岩殿へと向かう。しかし、ここで信茂は突如離反。かつての主君に鉄砲を向けたのである。やむなく天目山へと撤退した勝頼はそこで自害。武田宗家は滅亡した。

武田討伐の影の立役者ともいえる一方で、窮地に陥った主君を裏切ったことで信茂の評判は地に落ちる。織田信長への拝謁を願った信茂だったが許されず、加増どころかその場で処刑を命じられた。享年四十四。その裏切りは穴山信君や木曽義昌と同様の性格であったが事前に織田家と共謀しておらず、また土壇場での裏切りであったことはそのイメージを大いに悪くし、300年以上たった後の鉄道唱歌においてまで「奸党」とまで蔑まれている。

武田二十四将にも数えられた名将でありながら、最後の「どうする」を誤ったが故に滅び、その名誉は今も地に落ちた小山田信茂。戦国の世を泳ぎ切るのはかくも難しいのである。今作の家康が気の迷いから「どうする」を誤らないことを願うばかりである。

第27話:どうする一益(滝川一益)

愛が…重い…。信長様の不器用さとそれを受け止められない家康。
そしていらん火種となった明智光秀…。分かってはいるんだが、まさか本当に家康が信長を殺してしまうのか…。緊迫の回である。

今回は織田四天王の一角に数えられたが、『どうする家康』では影も形もない名将、滝川一益を扱おうと思う。

滝川氏は近江・甲賀の出身とされ、一益の父・一勝の代で滝川を名乗ったというが、それ以前から尾張において「滝川」を名乗る人物が活動していた記録があり詳細が不明な部分もある。滝川一益も太永5(1525)年の生まれでありながら本格的に織田家での活動が知られるのが永禄3(1560)年と前半生が謎に包まれている。後代の記録においても近江・六角氏に仕えた、河内国で同族を鉄砲で射殺した、不行状で身を持ち崩し尾張津島の友人に身を寄せていた、などはっきりしない。鉄砲の腕を見込まれて織田信長に仕官したとも伝わる。

さて、永禄3(1560)年には信長に長島の獲得を進言。蟹江城の築城や永禄10-11(1567-1568)年の伊勢攻略戦において大いに活躍したという。また、この前後において徳川家康との同盟(いわゆる清州同盟)の締結の交渉役を担ったとされるが、本作では特に描かれていない

その後、長島一向一揆、一乗谷の戦い、越前一向一揆、天王寺合戦、紀州征伐、第2次木津川口の戦い、有岡城の戦いと言った「秀吉」「光秀」「勝家」と言った他の有力武将の活躍で描かれることが少ない戦いで活躍。逆に言えば、彼が歴史の大舞台に残らなかったが故に知名度が低いだけであり織田家の天下統一事業において重要な役割を果たしていたことは疑いようもない事実である。特に第2次木津川口の戦い、有岡城の戦いは石山本願寺攻囲戦の決め手となったとも言われ、信長最大の敵対勢力である本願寺攻略の殊勲第一と言えよう。
天正8(1580)年には関東への文書にも名前が見られるようになり、それまで担当していた佐久間信盛が追放処分となったこともあわせて、関東方面攻略の主戦力とみなされていく。その構想は武田征伐において織田信忠の軍監として攻略の中心となったこと、その後信濃小県郡・佐久郡および上野国厩橋城を領有したことからも分かる。後の「織田四天王」「織田五大将」(余談であるが、筆者は寡聞にしてこれらの初出を知らない。インターネットで検索した範囲でもこの表現がいつから用いられたかを特定できなかった。有識者は連絡いただけると幸いである)と呼称される人物において、内政全般を担当していた丹羽長秀、方面軍を率いた柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉と同列に語られていることもあり、いずれは方面軍を指揮させる構想もあったかもしれない。

だが、一益の意向は少し違ったようである。一説には彼は甲州征伐の褒賞として信長の持つ名茶器「珠光小茄子」を所望したとされる。信長から茶器を拝領されることは茶会の開催許可と同義とされ、名誉なことである。だが、こうした解釈もできよう。新たな領地を得てさらなる出世を望むのではなく、茶会などを長閑に行う安寧・隠居を望んだ、とも。
また、滝川一益の有名な逸話として次のようなものがある。

一益と家臣が庭先で休んでいると、鳥たちが餌を啄んでいた。鶴は周囲を警戒しながら食べているのに対し、周りの雀は気にせず自由気ままに食べている。それをみた一益は家臣に次のように話す。
「自分は運良く大名となったが、あの鶴のようにつねに周りに気を配り警戒していなくてはならず気が休まらない。お主たちはあの雀のように過ごすことができる。だから、鶴のような身分を羨むのではなく雀としての楽しみを享受したほうが良い。」
一見すると嫌味のようにも取れる発言だが、不思議と彼の発言からそういった匂いは感じられない。
実は一益は織田四天王においても最長老である(柴田勝家が生年次第で同世代の可能性あり)。最前線で戦い続け、苛烈な殊勲の顔を伺い続ける日々。大身を得られたもののいつしか心は安寧を求めていた。彼は倦んでしまったのだろう。

こうした彼の人生はここから「凋落」の一途をたどる。本能寺の変で信長が横死すると甲信・関東地方は混乱。北信・南信を治めていた森長可・毛利長秀は撤退、甲斐を治めていた河尻秀隆は殺害。滝川一益は敵中に孤立する事となる。さらに北条氏による神流川の戦いで敗戦。やむなく滝川一益は在郷領主に領地を返上しながら這々の体で撤退。なんとか本領の伊勢に戻るが、その時には山崎の戦い、清須会議も終わっており、滝川一益は織田家における発言権をほぼ失っていた。秀吉の専横に対し織田信孝、柴田勝家と協力して対抗するも信孝は切腹、勝家は敗死。彼らよりも少ない領土しかない一益は大軍の前になすすべもなく降伏。その後丹羽長秀の元に身を寄せた後、小牧・長久手の戦いでは秀吉方として伊勢の織田信雄領の攻撃を担当。蟹江城などを攻略するもその直後に大敗し、新たな領土を得ることはなく、天正14(1586)年に越前大野で死去。かつて織田家の宿老を勤めた者としてあまりに寂しすぎる最期であった。しかし、彼自身がどのように感じていたのか、詳細は伝わっていない。いざ雀の身分に戻った時、彼の感じた思いはなんだったのだろうか。案外、肩の荷を下ろして気楽になったのかもしれないし、やはり鶴を羨んだのかもしれない。

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