【大河ドラマ連動企画 第43話】どうする◯◯(関ケ原の戦い)

 1話しっかり使って描かれた関ケ原の戦い。地元民として色々思うところはあるが、割と丁寧に描いていただいたのでは無かろうか。死亡フラグを爆速で回収する井伊直政と直政の危機にすぐ飛んでいく忠勝はやはり四天王の絆を感じるエピソードであった。

 と、ここで終わればただの関ヶ原だが、尺を削った分で最後に用意された家康と三成の対話は刺さるものがある。作中・作外でこれまで様々な方が言及してきた事であり今更繰り返すことでもないのかも知れないが、家康の視点からは「戦なき世」を目指した三成が変節したように見えるかもしれないが、そもそも三成は「秀吉政権の永続的維持=恒久平和」と捉えており結果としてゴールが同じなだけで第一目標が違っており、そもそも同じ星など最初から見ていない。そしてそれを見抜けていない家康の眼は「古狸」や「ヤマタノオロチ」とは思えぬほどに曇りに曇っている。そして、秀吉政権の維持のために戦に踏み切らざるを得なかった、という意味では三成は一切変節していないのである。むしろ、三成も指摘したように、平和の実現のためには武力を用いた政治も辞さない、という家康の在り方は信長や秀吉とも同じであり、「戦を望む」という心があったことで戦に繋がったという事実は揺るがない。そもそもが関ケ原の前に家康自身が「桶狭間を思い出す」だの「この戦を楽しむ」だの言っており、自己矛盾をはらみまくっているのである(もちろん人間が持つこうした自己矛盾こそが歴史の針を進めるものであり、それこそが人間というべきであるのだが)。痛いところを突かれた家康は、「それでも、やらねばならぬ」とだけ絞り出す。残りの5回でここに答えを出すことはできるのだろうか。

 余談であるが、関ケ原の戦い、というのは私にとって大きな存在である。関ケ原は私の地元にほど近く、幼少時に度々訪れていた場所であった。自然、そこであった大きな戦いに惹かれるようになる。転機は、中学校入学である。地元を離れ、隣県まで電車通学となるのが分かっていた私は暇つぶしに読書をしようと考えた。文庫本を自分で初めて選び、買う。地元の小さな本屋を訪れた時、偶然飛び込んだのが「関ケ原」の文字である。人生初の文庫本、人生初の歴史小説が司馬遼太郎「関ケ原」。なかなか早熟な中学生だとも思うが、私が歴史にのめり込むきっかけとなった原点である。数年前には関ケ原をテーマとした内輪の講演をしたが、1時間の予定を大幅に超過し、2時間となったのは今でも痛恨である。という思い入れがあるので、今回はどう家版関ケ原の戦いで描かれなかった者たちを多く取り上げたい。


運命に翻弄された信長の遺孫 織田秀信

 秀吉が抱き込んだ後、残念ながら一切の出番がないまま終了してしまった三法師だが、関ケ原の戦いにも関与している。その成長した姿こそが、織田秀信である。
 秀吉の工作により織田家の後継者とされた秀信は信雄を後見人とし、近江20万石を領有。その後、小牧・長久手の戦い後に織田家の家督は信雄が認められることになり、秀信は後継者の地位から外れた。しかし一方で、豊臣小吉秀勝の正当後継者として美濃国13万石を継承する。豊臣小吉秀勝は豊臣秀次の弟だが、彼は羽柴於次秀勝(織田信長の四男)から領地(と名前)を継承しており、信長から養子に迎えた織田家の流れを継承する含みもあったとされる。
 ともあれ、信長躍進の地である美濃を領有した秀信は岐阜中納言とも称される。石田三成の挙兵に際し、美濃・尾張2カ国を条件に西軍に所属。しかし、実質的な初陣であったことに加え、かつて岐阜城を領有していた池田輝政ら美濃・尾張の地勢をよく知る東軍諸将の前にわずか2日で米野の戦いに敗北からの岐阜城陥落となった。当初は切腹を考えるも説得を受け降伏。その後、岐阜城の退去に際し家臣一人一人に感状を認めたとされる。感状は戦での功績を記し称賛するもので、現代で言うなれば再就職の際の推薦状と思って良い。この心配りに東軍諸将も感動し、さすがは信長公の嫡孫と称した。しかし、その後の彼は悲惨な末路をたどる。高野山に配流と決まったが、信長による比叡山焼き討ち、高野山攻めの恨みを買い冷遇・迫害を受ける。そして5年後、高野山を退去することになるがその直後に急死する。享年26。病死とも、自害とも言われる。

関ケ原の戦死者を供養した半兵衛の息子 竹中重門

 関ケ原の戦いが行われた美濃国不破郡を当時治めていたのが竹中重門である。重門は秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治の嫡男である。逸話の中で小便で父の軍略講義を中座したことで激怒されおもらしプレイを強要されたことでおなじみの彼だが、父の死後、その領地を継承する。
 関ケ原の戦いでは当初西軍に所属しているが、戦の前にある人物の調略を受け、井伊直政を通じ東軍への寝返りを打診する。その人物とは黒田長政である。長政の父も秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛孝高である。そして、この長政と重門は幼馴染である上、父・重治は長政の命の恩人でもある。話を遡ること天正6(1578)年、離反した荒木村重の説得に向かった孝高は村重に捕縛・幽閉される。これを知らない信長は孝高を離反したものと考え、人質となっていた長政の処刑を秀吉に命じる。この際、長政を匿ったのが重治とされている。そうした縁を通じて調略された重門は関ケ原の戦い本戦において長政と共に東軍側に布陣、奮戦した。
 戦後、家康は米千石を重門に与え、領地を戦場にしたことを詫びると共に戦死者の供養、社寺の修復を命じた(紀行で取り上げられていた逸話)。重門により東西の首塚が建立された他、小西行長を捕縛する功績もあった。その後、引き続き家康に臣従。寛永8(1631)年に豊臣家の伝記『豊鑑』を記し、死去。竹中氏は旗本として幕末まで存続し、陸軍奉行・重固を輩出した。

毛利を支えた黒衣の宰相 安国寺恵瓊

 関ケ原の戦いと言うのに輝元を執拗に小者として押し出したい脚本・演出の意向で名前が一度も出てこないまま消滅した安国寺恵瓊は元は安芸武田氏の一族という。安芸武田氏の滅亡後、仏門に入った恵瓊は師匠の交友から毛利氏に接近。そのまま毛利の外交僧として活躍する。今回調べていて面白かった彼を指した言葉に「一対坊主」というものがある。長曾我部氏の外交僧として同様に活躍した滝本寺非有と恵瓊を並び称したものと言う。同家
中で活躍したものを並び称したもの(例:筒井の右近左近、大友の風神雷神、大阪左右の大将)は多いが、他家の2人を並び称するパターンはあまり多くない気がするし、一対、坊主という言い回しも他にはない独特のパターンで非常に興味深い。戦国時代に僧侶が外交に関与することは少なくない事例であり、今川家の太原崇孚や徳川家の以心崇伝などもその類と言って良いだろう。
 恵瓊の逸話として高名なのは天正元(1573)年末の時点で信長政権の転覆と秀吉の台頭を予測していた、というものである。当時の織田家は武田信玄の死去に伴い信長包囲網は瓦解。足利義昭を追放し室町幕府を滅亡に追い込み、朝倉・浅井氏を攻め滅ぼした。畿内の支配者としての地位を確立したわけでその政権の崩壊を予測するのは極めて困難である。また、当時の羽柴秀吉は新たに長浜城主を任命された出世頭とは言え、織田四天王を抑えて特筆される人物とも思えない。そうした点を踏まえ慧眼であったと言えよう。
 毛利家の中では親織田・豊臣路線を引き、小早川隆景とは親密であった一方、吉川元春・広家とは対立していたようである。関ケ原の戦いにおいて石田三成と連携し毛利家を西軍に加担させたのは恵瓊の働きが大きい。しかし、結果は西軍の敗北。吉川広家の事前工作も虚しく毛利家は大減封を受けるが安国寺恵瓊は毛利家を扇動した西軍首脳として石田三成、小西行長と共に六条河原にて処刑された。余談であるが、戦後潜伏していた恵瓊を捕らえたのは奥平信昌の家臣・鳥居信商(鳥居強右衛門勝商の子)という。

最愛の妻を失いながら戦った悲劇の将 細川忠興

 今回何故か全く触れられなかった大阪情勢において最大の被害を受けたといえるのが細川忠興である。石田三成は挙兵に際し、東軍諸将の切り崩しのため大阪屋敷にいる妻子を保護という名目で人質とする事を考えた。最初に目をつけたのが宇喜多秀家邸に隣接した細川忠興である。細川忠興および嫡子・忠隆の妻を標的としたこの企ては無惨な失敗に終わる。忠隆の妻は宇喜多秀家の妻と姉妹であったため求めに応じ隣の宇喜多秀家邸に避難した(これにより戦後細川忠隆は廃嫡されている。なんで?)が、忠興の妻・ガラシャは拒否。強硬手段を取った西軍に対して籠城の末、自害した。そもそもガラシャは明智光秀の娘であり、本来であれば本能寺の変後に離縁もしくは処刑されてもおかしくない人物。にも関わらず忠興はこれを匿い続けた程に愛していたとされている。そのような人物を自害に追い込んだことで細川忠興の怒りは頂点に達したし、他の東軍諸将も強引な手段からますます三成への不信感を高め作戦は失敗となった。
 関ケ原の戦いではその恨みを胸に奮闘。勝利を掴み、加増を勝ち取る。最終的に肥後熊本藩主になり、その家系は幕末まで存続。元総理大臣・護熙はその末裔である。

大谷吉継と連携して奮戦 平塚為広

 ドラマでは小早川秀秋の裏切りにより簡単に崩れたように見えた大谷吉継隊だが、史実では異なる。小早川秀秋の裏切りを予測していた大谷吉継は既に藤堂高虎隊と互角以上で戦闘していた疲労を見せずに奮戦。小早川秀秋の軍を三度に渡り松尾山まで押し返したと言われている。その脇で大谷隊と共に奮戦していたのが平塚為広の軍勢である。平塚為広の前半生は不明だが、播磨国攻めの途中で召し抱えられたとする説が有力である。秀吉の馬廻衆として豊臣政権の戦に参陣、関ケ原の戦いの直前にその功績から美濃国垂井城主となった。三成挙兵の際、吉継と共に翻意を促したが果たせず、西軍に属する。関ケ原の戦いの直前には小早川秀秋の動きを探り、裏切りの気配があれば暗殺せよとの密命を受けたとされるが、秀秋に事前に察知され暗殺は果たせなかった(逆に言えば裏切りはバレていた?)。関ケ原の戦いでは前述の通り奮戦するが他の諸将の裏切りが連鎖し支えきれず壊滅。『名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば』という辞世の句を残し討死する。これを受け取った大谷吉継が『契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも』と返歌したとも伝わる。彼の嫡子も戦死し、弟の家系が幕末まで存続。昭和になって子孫の平塚定二郎が関ケ原に墓碑を建立した。彼の娘は女性活動家として有名な平塚らいてうである。

減封?改易?関ケ原の裏切り者達

 前段でも述べた通り、小早川勢の裏切りにも動じなかった大谷吉継を崩したのはさらに連鎖した裏切りである。裏切った将は4人。脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠。いずれも藤堂高虎の調略を受けていたとされる。しかし、彼らの扱いは様々であった。

 脇坂安治ははじめ浅井長政、その後明智光秀の与力となり丹波攻めにも参戦。敵将・赤井直正に称賛され貂の皮の槍鞘を拝領したとも伝わる。その後秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍にも数えられる活躍をみせ、淡路国洲本3万石の大名となった。関ケ原では当初嫡子が徳川家康の上杉征伐に同行予定だったが三成の挙兵により困難となりやむを得ず西軍に属した経緯がある。安治はすぐに家康に同行した山岡景友(道阿弥)に経緯を説明した書状を送付し早い段階から裏切りを連絡していた。戦後、領地は安堵され、最終的に伊予大洲藩へと加増される。そのまま幕末まで家名が存続した。

 朽木元綱は近江朽木谷の領主である父の死に伴いわずか2歳で家督を継承し、足利義輝の一時保護や金ヶ崎の戦い後の織田信長の逃走への協力など歴史の転換点に多く立ち会った人物である。関ケ原の戦い直前には2万石の大名となっていたが、裏切り後に減封を受け、9550石になったとされる。ただ、この裏切りの経緯に不明な点も多く、減封ではなく豊臣家の蔵入地の没収だったのではないかとも言われている。その後、複数の家に分かれ旗本となるが、分家が大名に取り立てられ、本家より石高が大きくなる逆転現象が発生している。

 赤座直保は朝倉氏の家臣だったとされ、朝倉氏の滅亡後織田信長に仕える。本能寺の変で父が戦死すると家督を継ぎ、羽柴秀吉の家臣となり功績を重ね、越前今庄2万石の大名となった。関ケ原の戦いでの裏切りも虚しく、所領は没収されている。しかしこれも裏切りの経緯がはっきりせず、そもそも本戦に参加していない、という説もある。ともあれ、所領を失った直保だがわずか1月後には前田利長の家臣となっている。召し抱える利長の神経がわからない。あるいは家康や高虎から何らかの口利きがあったのかもしれない。直保の最期は衝撃的である。慶長11(1606)年、越中国大門川が氾濫。見聞に赴いた直保は落馬、濁流に呑まれて溺死する。台風の時に田んぼを見に行って死ぬ高齢者ムーブである。

 小川祐忠はもともと浅井氏の家臣であり、その後織田信長に降伏。明智光秀、柴田勝家に仕えるも勝家の養子・勝豊の家老であったところ勝豊が秀吉に寝返り、それに伴い秀吉に仕えることとなる。最終的には伊予今治7万石の領主となった他、茶人としても名声を高めていた。関ケ原の戦いの直前には親族の一柳直盛に逆に調略を仕掛け断られている。彼も所領を没収となり、死一等を減じられ直盛に預けられた、と書かれている。彼に関しては「悪政や卑怯な振る舞いが原因で所領を没収された」と複数の書物で言及されておりあまり人気がなかったのかもしれないが、純粋に他の3将に比べて逆調略を仕掛けるなど積極的に西軍に利する行動をしたこと、息子が三成と親しかったことなどが影響していると思われる。改易後は京都に住み、ほどなく没した。末子の光氏は翌年には豊後日田の大名に復帰したが、無嗣断絶となっている。

おわりに

他にも直前で寝返り多くの軍勢を釘付けにした京極高次、丹後田辺城で寡兵で籠城、古今伝授というレア資格で命を拾った細川藤孝、戦後唯一旧領に復帰した立花宗茂など語りたい人物は数多いるが、このあたりで文字数も5000文字を超えたので筆を置こうと思う。

最後に、この界隈で最も精緻な考察を加えていることで知られる青江氏が家康の自己矛盾に言及し、「戦国大名」としての血が失われるには家光まで至る必要がある、と述べていることで、ようやくはたと膝を打つにいたった。
小栗旬が出るとしたらここしかない。かつて北条義時が作った平和な武家政権運営システム(修羅の道の先ではあったが)を学び、平和な武家政権を構築する家康。その完成形が「政権運営のシステム」に組み込まれた徳川家光(=小栗旬)であり、「生まれながらの将軍=戦の作法を知らない、純粋に戦なき世を志向する為政者」である。

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