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憧れの千々石さん【千々石ミゲル】

(2700文字)

雲仙へ。

上の写真は長崎県にある雲仙地獄です。
("みんなのフォトギャラリー"からお借りしました。)

遅めの夏季休暇に、また旅行に行くことになりました。

行き先は雲仙地獄で有名な長崎県の島原半島です!

島原と聞くと、1番有名なのは島原の乱でしょうか。

しかし、今回の目的はお隣の雲仙市千々石町。千々石ミゲルゆかりの地です。

旅行に行くにあたり、より気持ちを高めるためにミゲルの記事を書くことにしました。

千々石ミゲル
(1569〜1633?)
釜蓋城主千々石直員の子。従兄弟に有馬晴信がいる。
天正遣欧少年使節として、1582年ローマへ向かう。

天正遣欧少年使節

ミゲルを語る上で外せないのは、やはり天正遣欧少年使節のメンバーということですね。

天正遣欧少年使節とは、キリシタン大名の大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代としてローマ教皇のもとへ派遣された4人の少年(12〜14歳)のことです。

この4人は、セミナリヨというキリシタンが通う学校の1期生でした。

メンバーは

頼れるリーダー、大友宗麟の代理としてヨーロッパに行った伊東マンショ、

はちみつのように甘い!立ち振る舞いは王子様な千々石ミゲル

頭脳は使節No.1、旅先での通訳なら任せて
原マルチノ

釣りが得意。ワイルドなのに体が弱い中浦ジュリアン

がいます。

(名前が洗礼名ということもありかっこよく、セミナリヨ「1期生」という響きがアイドルっぽかったのでキャッチコーピーを考えてみました。下手くそですね)


ミゲルは武士の嫡子として育ちながらも、オルガンの演奏やダンスができ、スペインではフェリペ2世相手にさらっとひざまづいて手に接吻までしているので王子様キャラにしてみました笑

また「蜂蜜のように甘く、物腰柔らかな子」だったと当時のドイツの新聞に記述がありました。


そんな彼ら4人と出会ったのは高校生の頃で、確か教科書の片隅に小さく記述があった程度だと思います。

教科書に出てくる偉人は大体が大人で、年下の偉人は珍しかったため印象に残っていました。

子供という点でいうと有名な天草四郎が同じ年代にいますが、四郎は詳細が使節ほど分かっていなかったり、神格化されていることもあって伝説が多く(海の上を歩くとか盲目の少女の視力を回復させたとか)なんだか遠い存在でした。

それに比べると使節の4人は、境遇は違うながらもセミナリヨの同級生で、共に勉学に励み(毎日朝6時〜夜9時まで!)、ローマへ行く船の中でもヨーロッパで日本が馬鹿にされないように、ラテン語やポルトガル語、音楽、西洋マナーを猛勉強しています。

おこがましいですが、高校生だった私は、等身大の4人の姿に教科書の誰よりも親近感を抱きました。

しかしこの4人、幼少の頃から10年以上共に過ごしているのにも関わらず、誰も同じ道を辿らないのです。

使節は織田信長がキリスト教を保護し、布教活動が活発だった1582年にローマへ出航します。
そして約8年後、豊臣秀吉が天下を取り、バテレン追放令の出された1590年に日本へ帰国するのです。

キリスト教の全盛期に日本を出て、帰ってくるとキリシタンが迫害を受けている。ものすごい衝撃があったと思います。

そんな日本を出航したときと全く違う状況の中で、4人はそれぞれ不遇な運命へ向かっていきます。

特に違う道を歩んだのが、千々石ミゲルだと思います。

彼は禁教令の影響でキリシタンの状況が日に日に厳しくなっていく中、4人の中で唯一棄教します。

ミゲルの謎

ミゲルは帰国後、しばらくは他の3人と共にコレジオという学校で勉強しイエズス会に入ったという記録がありますが、1601年には脱会し棄教しています。

棄教した理由はおろか、その後どう生きたのか、いつどこで亡くなったかも分かっていませんでした。

しかし2003年、長崎県諫早市でミゲルの墓だと思われる巨大な石碑が発見されます。

この石碑には「千々石玄蕃」という文字があり、近くの住民の方たちは「ミゲルの子の墓ではないか」と推測していたらしいのですが、

・「千々石玄蕃」の文字が石碑の裏に書かれていること
・石碑の表に2人の戒名と没年月日が書かれていること
・またそれが夫婦のものと思われる

これらの理由からミゲルとミゲルの妻の墓ではないかと発表されました。

ミゲルが結婚していること(イエズス会で司祭になっていたら結婚できないため)、戒名があることから、仏教徒として生涯を閉じたのだと推測できます。

しかし、2017年に発掘調査を行なった際、なんと石碑の下からロザリオが発掘されました。

ロザリオとは、カトリックの祈りの儀式で使う道具です。

この一部だと思われるガラス玉が59個、紐を通せるよう穴が開いた形で出てきたのです。

これが本当だとすると夫婦はキリシタンだということになり、棄教説が覆る可能性があります。

(ミゲルの棄教の理由や墓石調査については細かく調べると凄い量になるため、機会があれば別に記事にしたいと思います。)


ミゲルの実家

最期はまだ謎に包まれているミゲルですが、生まれた場所は記録に残っています。

雲仙市にある釜蓋城(かまぶたじょう)というお城です。

築城したのは父である千々石直員(なおかず)。

日本で最初のキリシタン大名大村純忠の弟です。3男だったため千々石氏の養子となりました。

しかしミゲルがこの城で過ごした期間は、おそらく5年あるかどうか。

1577年、直員は親縁の有馬側として龍造寺氏と戦うことになります。

釜蓋城を守るため奮闘しましたが、有馬氏からの援軍が遅れ、負けを悟った直員は家臣と共に自刃。

釜蓋城も攻められ落城します。
(火をつけられた説もあり)

このときミゲルの記録は残っていませんが、龍造寺との戦いの前に乳母と共に城を脱出したと伝わります。

その後は大村氏に保護され、セミナリヨに入るまでの数年間キリスト教の盛んな大村領で過ごしました。(この大村領時代にキリシタンになったと考えられます。)

ミゲルの母については、釜蓋城から逃げたもののその他については詳しい記録がありません。

しかし、ほぼ確実な情報に、一人息子のミゲルのローマ行きにいい顔をしなかったこと、日本に帰ってきてからもバテレン追放令が出ている中イエズス会に入ろうとするミゲルに強く反対したことがあります。

これらのエピソードから、波乱万丈な幼少期を過ごしているミゲルですが、母親からは愛されていたのではないかと思います。

そんな家族3人が短いながらも過ごした釜蓋城こと千々石家に行くのは憧れがありました。

釜蓋城があったところに現在は何も残っていないようですが、ミゲルとミゲルの両親の過ごした地の空気を感じてきたいと思います。

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