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ヒューマニタリアン(9/16)

もう、2ページでこのノートもお終い。大体ではあるが、一カ月に満たない日数でよくこんなに書いたもんだ。それだけ罪の意識のあった、ということか。恩人への、親族への、子どもたちへの。このノートはもう終わるが、当然僕の日常は続いていく。続けなければならぬ。どのようなものとして?出来得る限りの光と彩り、明るい音と楽の音で彩ろう。
ここは明確にしておくと、精神の専門の病院であるらしい。入院してから知ったが、それだけ重度だったのだろう。様々な患者さんがいる。自分をそうやって知る。病院にも色々入った。感謝と懺悔しかない。ここ、沼津中央病院へも。

いたつきて乱る日々にも反射せし耀う水面 沼津中央
(病で乱れるような日々であっても、乱反射する川の水面のように、皆も幸いで輝いてありますように。)

僕にとって病院の窓から見える狩野川は、この病院と一つである。もう10日程で秋田に戻る。狩野川と沼津、そしてA市の幸いを毎日祈ろう。それは僕自身の幸いだ。窓からは富士山も見える時がある。天気が良ければ。僕は富士に日本の民の幸いと気付きを祈る。それも僕自身の幸いと気付きの筈だ。
愛鷹山も見える。そこには霊園もあって、そこは花々の咲き、良く管理された素敵な所だった。轢かれて亡くなった猫が寮の前にいて、夏場だったのでそこに葬ったことがあった。「アシタカちゃん」と勝手に名前もつけた。お金はかかったし、親にも迷惑かけてしまったが、それは必要だった。「少年A」の残虐が同じ人間のしたことであるなら、僕は人間として真っ当な所を猫に見せて上げたかった。至る所、人は病んでいる。だが、病み方にもその人間は見えるものだ。僕も病んだ。もう、病まない。(その方策があるから。)
我々は、人間は、何処へ向かうだろう?人類の旅の終わりがあるとすれば、中途で止む(滅び)か、筏を彼岸へと渡しきる(成就)か、どちらかでしかない。
僕は成就を望む。探る。それは人としての責務であると思う。(滅びの輪廻に、終止符を打ちたいのだ。)
この病気は25才の時に発症したので、15年くらいの付き合いとなる。昔と違い、まだ若い患者が増えた。日本の闇の深さそのものである。(医学の進歩以上に、闇だと思う。)
僕は病気で、同類なので、気持ちは全く同じではないが理解できる。(病気にも色々ある。)年若い彼ら、彼女らが痛ましい。スピリチュアリズムであろうと、何であろうと病みの原因である闇を照らし、癒さねば、根本の解決は遠いだろうと思う。
人間の心は不思議。傷つけもするし、癒しもする。
傷は、人間で、癒しも、人間。
残酷にも、優しくもなれる。
多分、それは紙一重。
少しの努力を、するか、しないか。
僕はしようと決めた。
人間の、人類の、この星のさいわいを祈り、終える。
皆人の心は、個々の心なのだから、自分の幸いは、皆の幸いなんだ。
彌榮いやさかあれ。

令和5年9月16日
シュガー恭介

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