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猫の写真集の余白に書いた文章(8/6)

今度の入院、姉より賜りし猫達の本。
気狂いも、自死も、正気より楽だと思っていた。多分、それは本当にその様な面も僕のような、一風変わった人間には、その個人には本当だろう。だが、総体として、「人間」としてこれらを見ると、「苦」いじょうに「苦」であった。「夜露死苦」なんて、気軽に恐ろしい言葉を使う人間を本当に馬鹿にしていた。だが、僕も同程度に愚昧であった。「おならブーブー族」と暴走族を呼びならわした方が自覚を促す、という意見があって、それは真っこと正しいと僕も思う。だが、放言放屁している訳ではない。正に彼らは彼ら世代の代弁者である。「だいべん」であって、単に「ブーブー」文句を垂れている訳では、絶対にない(社会代弁族)。正に、「代弁」、真の「代弁」、正銘の「代弁」であればこそ、僕も私も、俺もあなたも彼等に同情を禁じ得ないのだ。そう、只の生理現象と同じである。臭いものではない。しかし、夜中にうるさいのは勘弁して欲しい、と、こちら側の意見も僕が代弁しておこう(だが、愛すべきクソどもだとは明言しておく)。
話がかなり尾籠になってしまった。それらは水に流してしまおう。行雲流水、レバーを大きい方に引くだけである(大我へ)。話の要石かなめいし、真の要点は、ここにある。自殺願望というものは決して、決して甘いものでは、なかった。かつて、そうだった。今、詳らかに見分しようと、パッと見の印象インスピレーションであろうと、まるで外貌を異にした絵姿である。まるで、稚拙なイタズラ描きを、子どもの天才と勘違いしていた相違がある。管々書くのは、止めよう。「愛」を知らなかった。「愛」を。真実、「孤独」をしらなかった、「孤独」を。愛は孤独であった。だが、愛は本当に僕を辛抱強く待ってくれた。聖句すら引きたいくらいの筆の勢いはある。が、今は止めておこう。真の「愛」を知った時、真の「孤独」があった。孤独は泣いた、激しく、激しく。その慟哭を聞けば、鬼神とて泣いたであろう。

愛を知り天にそびゆる堂崩れ美観に知りぬ熾烈なセラフ
(世界の真実を知った時、天の堂の崩壊を聞いた。)

「川は流れた。風は吹いた。」
川のを吹き渡りたる夏の火と輝きてある天主の瓦礫

「山は在って、日は眩暈した。」
富士の山 高照る日はも防人さきもりの華散るさと幸くさや

僕は狂気の国で彷徨った訳で、結果又入院したのだが、全く、あり得ない美しい情景、色彩、狂気の黄金の時の中を、しずしずと歩いた訳だ。ここに、一個の精神の真実の姿と叫びを聞くか、只の脳の幻影として処方するか、道は分かれる。虚無と愛は食み合い、虚愛は虚無以上に無であって、愛は愛以上に全だった。あまりにも悲しく愛は響き、余りにも美しく嘲りは荘厳した。(イエスの十字架とて同じだろうと、僭越だが記す。)
人間とは、神の造化の辿り至った、一つの習作である。これが、これこそがモダン・スピリチュアリズムの一つの美しい仮定ともいえる。我らは人である。人霊である。たやすく溺れ、たやすく壊れ、たやすく堕落する。頽落する。しかし、人は単なる模造であるか?模作であるか?死に、死に、死に、死んだ後に、生き、生き、生き、生き抜く。果たして、神がより美しい調和、成就をめざさないなんてことがあり得るだろうか?より向上を目指さない神、既に完全な全知全能なる神がいたら、僕は槍で貫くか、黙殺してやろう。
実にここに僕は知る。我らは神の習作であり、今の神以上を目指す、果断なる神々であり、神そのものである、と。神の意志により、神以上を目指す、それが人霊である、と。
今日は令和五年葉月六日。広島原爆の日。当時の熾烈過ぎる試練、困難に耐えた、全ての御霊みたまに捧ぐ。
(前半のおふざけはご海容下さい。)

いつわりの太陽の地に落ちた日に我らまことの愛求めたり

求道既に、道である。夜の時代、我られたり。神のごと歩み、照らしご覧ぜんと志す。

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