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かっこいい大人

「かっこいい大人ってどんな人だと思いますか?」

約1年前に中学3年生から問われ、しどろもどろになった質問。

この質問にちゃんと答えられていたのだろうか、、と、今だにふと思うことがあります。

昨年とあるご縁で、中学校の修学旅行一環で企業訪問を受け入れた際、中学3年生約40人に、サステナビリティ関連の授業を担当させて頂きました。

SDGsの動きや企業の取組みなどを説明した後の質問コーナーでの出来事。

最近の中学生の方々は、サステナビリティ分野の勉強が結構進んでいるようで、スルドイ質問や、よく企業のことを勉強しているなあと思われる質問が数多く出てきました。

様々な質問に受け答えしている中で、もうそろそろ終わりかなあと、ホッとしかかった時。

女子中学生が「はい!」とまっすぐ手を上げキラキラした目でしっかり自分を見据え、

「すみません。サステナビリティとかとは関係ないんですが、、」という前置きのもと、

「かっこいい大人ってどんな人だと思いますか?」

と、スト―レートの豪速球を投げてきた。

重ねて「うちのクラスでは、1年かけての研究テーマに『かっこいい大人とは』というのにして、いろいろな人に聞いたりして研究しているんです。」と、

思ってもみない質問。

こういうのを文字通りの「想定外」って言うんだろうなあと、他人事のように妙に関心しつつ、、

でも、あまりの直球にキャッチャーミットをしてても、受けた手はじんじんとしている感じ。

「そうですか、、『かっこいい大人とは』という質問はいいテーマですね。。」

と、なんだか訳の分からない返しをしつつ、しどろもどろになりかけることを悟られないよう、冷静さを装いながら次の言葉を探していました。

「そうですね。。何かを目指している人、夢を追って生きている人、、」

なにか上っ面な感じでうまく表現できない。。

約40人の真面目な中学3年生が純粋な気持ちで大人の話を聞こうとしている。

これはマズイ。。マズイなあ。。

うーむ。。そう言えば、自分がかっこいいと思った先輩、上司はどんな人だったんだろう、、、とアプローチを切り替えて、

「えーと、、『かっこいい』と思うことって、もしかしたら人様々なかもしれませんね。」

「私が、かっこいいなあ、目指したいなあと思った先輩、上司は何人かいますが、そのなかの一人、大先輩のお話しをしますね。」

ということで、自分が以前とあるプロジェクトで汲々となっていた時の大先輩の立ち振る舞い、全体感を持ちつつ一人一人を思いも配慮しての対応のお話しをしました。

「みんなにとっても良いな、かっこいいなと思う人や先輩がいるかもしれませんね、なぜその人をそう感じるのか、それぞれが思うかっこよさを探して見てはどうでしょうか。」

なんだか答えているようで答えにになっていないような。

改めて、「かっこいい」ってなんだろう。

単に外観の話ではなく、どんな時のどんな振る舞い、どんなスタンスが「かっこいい」と思えるんだろう。。

となると、生き様、生き方を中学生は模索しているということだったのだろうか。

と、それ以来、折に触れてふと思うことがありました。

そんなことが心の片隅に残っていたせいか、最近本屋さんをぶらぶらしていたら、ズバリ、『「カッコいい」とは何か』というタイトルの本に出会ってしまいました。

新書ですが約480ページあり読み応えのある本。

著者の平野啓一郎の「私とは何か」という別の新書を以前に読んだことがありますが、その中で「分人主義」という考え方を提唱しています。

それは、一人の人間の中にある様々な自分があること(いること)を受け入れるということ。

そのような自分の中のダイバーシティを積極的に認めていくことでの生きづらさの解消につながり、より自由に生きることができる。

自分の中のいろいろな自分、いろいろな人格を、分裂、分断と捉えるのではなく、自分の可能性、能力の幅を広げる世界が自分の中に広がっていると捉える。

面白い考えだなと思い、妙に腹落ちしたことがありました。

現在はダイバーシティ&インクルージョンの推進、多様性社会をどのように構築していくかが議論されていますが、その推進の前に、まずは自分の中の多様性に気付き、認め、受け入れ、開発していくことがその基盤をつくることかもしれないと感じました。

さてさて、そんな平野啓一郎はこの「かっこよさ」をどう料理するのだろうか。早速読んでみました。

本書では、「かっこいい」という概念を整理し、その歴史的な変遷を古今東西の事例、そして日本の中での変化を詳細に検証・検討しています。

まず「かっこいい」ではなく「カッコいい」というカタカナの言葉で概念を整理。

この「カッコいい」という日本語自体は意外に新しい言葉のようです。

「カッコいい」が、現代語辞典に登場するのは、ようやく1990年代のことで、一般的な言葉として普及したのは、実は1960年代である。半世紀以上前の日本人は、何かにつけて「カッコいい」と言ったりはしていなかったのである。

(同書p5)

但し、語源としては「恰好が良い」という「恰好」の最古の使用例は中国の漢詩である白居易の詩(824年)で確認されている。

しかし、日本では近世中期頃に様々な文献にも登場することになり、「あるものとあるものがうまく調和する」という本来に意味合いに加えて「全体的な見栄え・様子」を意味することに変遷していったようです。

そして、「カッコいい」という言葉は具体的に何を、誰を指すのかを議論すると途端に話がややこしくなり、言葉の定義の難しさを指摘している。

それは、歴史的変遷の中で、「カッコイイ」の基準がきわめて個人的な「体感」に根差してしまっているからと論じています。

「カッコいい」にあって、「恰好が良い」にないものの一つは、あの「しびれる」ような強烈な生理的興奮である。それは非日常的な快感であり、一種、麻薬のように人に作用し、虜にする。
(中略)

「カッコいい」存在とは、私たちに「しびれ」を体感させてくれる人や物である。

(同書p104)

そして、日本で「カッコいい」という概念が普及して行った1960年代の日本は、戦後から約20年後、高度成長期でもあり、マスメディアが急速に広まり自分自身が主役となる新しい喜びが生まれてきた時代背景があるとも語っています。

現代語の「カッコいい」はジャンルを横断する、あるいはジャンルを超越した理想像であり、画一的な上からの押しつけではありえない(p97)とも語っています。

一方で、こんな見方も。

「カッコいい」が1960年代以降、日本で一気に広まったのは、戦後社会に「自由に生きなさい」と放り込まれた人々が、その実存の手応えとともに、一人一人の個性に応じた人生の理想像を求めたからである。(中略)

「カッコいい」人やものを求めるのは、言わば「自分探し」である。

だからこそ、私たちは、自分が「カッコいい」と信じている人を誰かから「カッコ悪い」と笑われると、まるで自分自身を侮辱されたかのように腹が立つ。

(同書p429)

「カッコいい」とは何かは、時代ともに変化していく。

しかし、今後の「カッコいい」については、日本社会の少子高齢化の進展により人口のボリュームゾーンが高齢者に高止まりしていているが故に、ビジネス、マスコミはいつまでも古臭い「カッコいい」に依存せざるを得ない状況が続かざるを得ないことに。

そして、既に「カッコ悪く」なってしまった文化が更新されることなくメインストリームで有り続け、新しい「カッコよさ」への新陳代謝が起こらない懸念も指摘している(同書p460)

世の中の流れや動きを敏感に感じ、時代を先取りする「作家」が取り上げている「カッコよさ」というテーマ。

それに呼応するかのような中学生の研究テーマ。

そして、キラキラした目をして真っすぐ「大人」に迫ってきた中学生たち。

「カッコいい」大人とは、という問いを通じて、中学生のみんなは何か本質的な事を掴もうとしていたのかもしれない。

今の中学生が、この時代にそのような「問い」を立てること自体、新しい時代のまったく新しい「カッコよさ」を構築しようとしている兆しではないか。

私は、本書で分類されているいわゆる『古臭い「カッコいい」に依存』している世代の人間。

新しい世代は、上の世代の「古臭さ」「ダサさ」を批判、否定して乗り越えていくのが世の常。

とは言え、温故知新、また古いものを新しい技術でバージョンアップさせていく、ということも一面。

それは、倒木の上に若い木が根付き成長していくというような、森の木々の新陳代謝のようで、決して断絶した非連続な更新ではないような気がしています。

新しい兆しを邪魔することなく、とは言え、「古臭さ」の中にある、世代を超えた共通して存在しているものを見出せたらなと思いした。
(こんなことを思う事自体が「古臭い」世代なのかもしれませんが、、)

最後に平野啓一郎はこのようにも語っています。

将来的に、いつまで人が「カッコよさ」を求め続けるかはわからない。しかし「カッコいい」には人間にポジティブな活動を促す大きな力がある。人と人を結びつけ、新しい価値を創造し、社会を更新する。

(同書p461)

その新しい価値創造の源はひとりひとりが求める「カッコよさ」であり、「新しい「カッコよさ」の発見は、新しい自分自身の発見でもある」(p439)とも。

そして、その可能性を広げて行くためにも「分人主義」的なアプローチが今後重要になってくるのではないかとも語っています。

なんだかもう一度中学生とお話してみたくなってきました。

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