猪瀬直樹×東浩紀「日本は『訂正』できるか」を見て感じた希望と寂しさ

色々とすごい番組だったので感想を残しておこうと思う。冒頭は無料だし、冒頭にほぼ全部が詰まっているので冒頭だけでも是非。

1.端的な全体の感想

 番組後半(2時間51分ごろ)のネットから質問「2020東京五輪の残したレガシーはなんですか?」という質問に対しての誘致した猪瀬さんの答えが「インバウンド」ではどうしようもないと思う。全く物語がない。繋げていない。国家的なイベントは現役の世代だけでなくて、次の世代(その場にいなかった世代)にとっても繋げられるものではなくてならない(そのように作らなくてはいけない)と思う。加えて、この物語はイベントが終わったのちに紡ぐことができるしそうすることでイベントの歴史的な意義を「訂正」することもできる。
それが全く行われていないことがわかり(そして似たようなことを繰り返そうとしていることがわかり)、呆然となった。

2.観客の重要性

討論、討議、学会や国会の質疑応答では「それっぽいことや、強いこと、難しい(大抵は簡単なことを言っている)用語をまくしたてて、質問には答えない」というとテクニックが頻繁に使われている。これは使った側がなんとなく「勝った感」を得ることができ(実際は無)、深い内容を理解できていない聴衆側には「もしかしたらこの人が言っていることが正しいのでは?」という勘違いを起こすことができるため有効であると思われているようだ。
ただ、このテクニックは討論をどこにも行けなくする最悪のテクニックだ。
そもそも討論は勝ち負けを競うために行うものではない。
言葉を投げかけ合い、繋ぐことで、一人では辿り着けない場所にたどり着くために行うものだ。その意味で言葉というボールを返さない上記のテクニックを使うことは恥ずかしいことである。

今回のイベントで良かったことは観客の多くが「おいちゃんとボール返してないぞ!」と適切に反応していたことである。これは、議論の内容を観客が理解できていないとできない割と高度なことだと思う。今回の言論カフェではそれができていた。東さんは「観客を育てる」ということをよく言っていたがそれが成功しつつあるのではと思った。

と同時に観客が討論において非常に重要であることがよく分かった。討論を有意義なものにするには登壇者たちが真摯に言葉を返し続けなくてはならない。ただ、真摯に言葉を返し続けること登壇者の誠意に頼っているだけでは不十分なのだろう。何らかの補助装置、外部装置(つまりは観客)が必要なのだ。

3.寂しさ

僕はこのイベントからどうしようもない寂しさを感じた。僕自身中年と言われる年に差し掛かっている。そうして最近遭遇するのが、尊敬していた年上の人がだんだんと辻褄の合わないこと、おかしなことを言い出すというイベントである。もちろん全ての年上の人がそうではない。70になっても、80になってもキレキレの人もいる。が、やはり年上の人の衰えを感じることが増えている。
このようなイベントに遭遇して感じることは、寂しさである。時は流れて、何かが壊れてしまった。そして自分もおそらくはその流れに逆らうことはできないのだろうという寂しさである。
番組後半、僕は東さんの方が猪瀬さんより辛そうに見えた。

色々書いたけれど、ちゃんとした観客がいれば誠意が十分ではない論者がいても議論を有意義なものにできる可能性が示されたという点でこの番組の意味はあったと思う。



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