森脇透青

デリダ研究・批評。京都。

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これまでの仕事(随時更新)

森脇透青(もりわき・とうせい)1995年大阪生。大阪住み、ふだんは京都にいる、月一くらいのペースで東京にいます。ジャック・デリダの哲学を中心に、近現代哲学と美学を研究しています(学術振興会特別研究員DC2)。 また、批評のための運動体「近代体操」発起人でもあり、創刊号が発刊されています。批評はいままで音楽、文学、漫画、建築、写真などについて書いたことがあります。ライター・エディター系の仕事はANTENNAで行っています。音楽ユニットpaddy blueのメンバーです。 こ

    • 2023年『週刊読書人』論壇時評まとめ

      2023年に『週刊読書人』で一年間論壇時評「論潮」欄(月一連載)を担当しました。ここではそれを一覧にまとめるとともに、簡単な紹介・短い雑感を書いておきたいと思います。 時評掲載号はウェブ上から購入することができますが、会員登録することで無料で読むこともできます(2024年1月1日現在、10月分まで無料公開)。 ちなみに、各論考の見出し(タイトル)は大体『読書人』編集部に考えてもらったものです。あまり内容にそぐうものではないなと感じた場合にはこちらから提案した場合もあります

      • 【冒頭公開】ルソー、レトロスペクティヴ——「記憶の記録化」についての試論(群像新人評論賞2021最終候補作)

        ルソー、レトロスペクティヴ——「記憶の記録化」についての試論森脇透青 序 〈私〉という病 ルソーは、『言語起源論』のなかでつぎのように記している。  それゆえ、私たちは旅に出なければならない。私たちは、「いま・ここ」にいる自己の外に出ることによってのみ、すなわち想像力によってのみ、他者と連帯しうるのだから。  苦しむ他者への同一化——動物にさえ備わっている憐憫の情——は、ルソーの主著のひとつ『人間不平等起源論』の鍵概念でもあった。だが、『言語起源論』では、ルソーは別の考

        • 一度ラーメンを食べたなら、あなたは歴史のなかにいる

           レンゲに掬い上げた熱すぎるスープをまずは啜って、あなたは舌に多少の火傷を負う。それを嚥下するとともにあなたは少し緊張して、これからはじまるすべての出来事に対して一息つく。そうしてようやくあなたは、油を含んでにぶく光を反射する汁のなかに箸を沈め、麺を探り、一定のまとまった量に納得しつつ、口に運ぶ。  この一連の美しいシークエンスの中にはたしかに、何かしら奇妙な解放感、「独りで静かで豊か」※1 な孤独の経験、救われた聖域の経験、「ぶっちぎりの自由」※2 があるように見える。私

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        • 2023年『週刊読書人』論壇時評まとめ

        • 【冒頭公開】ルソー、レトロスペクティヴ——「記憶の記録化」についての試論(群像新人評論賞2021最終候補作)

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          「読む」とは哲学的にいかなることなのか?(デリダ『グラマトロジーについて』読書会の終わりに)

          ※ 一年近くかけて実施した読書会が先日(2021.8.28)終了した。対象図書はジャック・デリダ『グラマトロジーについて』(1967年)。以下は、その読書会の締めくくりとして、最終回で読み上げた文章を一部加筆修正したものである。投げ銭用に有料設定してあるが、無料で全文読める。なお、その途中過程でもいくつかのまとめやエッセイを書いているので、お手隙の際にでもお読みいただきたい。 ———————— この読書会のテーマは「読むこと」であった。「グラマトロジー」とは、リトレ辞典に

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          左藤と松田のラジオ(仮)_アフタートーク #1

          購入後に全編(46:08)を視聴することができます。

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          左藤と松田のラジオ(仮)_アフタートーク #1

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          日記 2021.2.15昼、新宿西口

          東京に来て何日か過ぎた。今日は友人は朝から会社に出かけて行った。洗濯を回し、夕方から新宿でひとと会う予定があるので、出かける。雨が強くて濡れてしまった。今は新宿西口のルノアールにいる。XTCの『イングリッシュ・セツルメント』のブリティッシュで湿っぽいポップさはこういう日にマッチする。このアルバム、後半の方が若干だらけている感じがするが、なんだか一番聞いてしまうのだ。 備忘の意味もこめてこの数日のことを書いておこうと思ったが、長くなりそうなので二つに分ける。気が向いたら続きを

          日記 2021.2.15昼、新宿西口

          「亞種音の解剖①」の「あわせて聴きたい」

          左藤です。上のような企画をやりました。その成果が以下です。 このなかで、P-MODELの初期の3枚のアルバムと「合わせて聴きたい」アルバム・曲をそれぞれ挙げました。以下に抜粋して共有します。 『IN A MODEL ROOM』(1979) King Crimson『Starless And Bible black』(1973) XTC『White Music』・『Go 2』(1978) Bill Nelson‘s Red Noise『Sound on Sound』(19

          「亞種音の解剖①」の「あわせて聴きたい」

          (告知)P-MODELについて語る配信 「亞種音の解剖①」

          左藤です。告知です。無料で最後まで読めます。 かつて存在した伝説的バンドP-MODELの楽曲について解説っぽいことをする放送「亞種音の解剖」をします。初回は1st〜3rdまでで、スライドを用意して、発表形式で全楽曲について喋ります。 私、これまでP-MODELについて何度か書いていて、その初めは2017年に、「航路通」という名義で書いた評論(「平沢進の実体化する他者/「眠り」」)でした。もはや文体が恥ずかしくて見返せたものではありませんが、これは結構読まれているので、「馬

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          (告知)P-MODELについて語る配信 「亞種音の解剖①」

          場をしのぐこと——命令形についての一考察

          ※ 『文藝』2021年春季号に掲載されたいくつかの論考についての感想、14700文字程度。有料設定は投げ銭用なので、無料で全文読めます。 現代とは何の謂いか現代。/着地点はねえ/ずっと飛んでるキブン/ヘンタイの思想は共感できん/四季が巡り/色とりどりの人類模様/俺はいつも動揺を押さえきれん(KIMOCHI - ZAZEN BOYS) それにしても「現代」とはいつ、どこにあるのでしょうか。周りを見渡す限り、私を含む数多くの人たちが、「現代」の不定形さや流動性に怯え、その不確

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          場をしのぐこと——命令形についての一考察

          建築は「不気味」たりうるか? ——《新国立競技場》をめぐる建築的強度

          ※以下に掲載するのは、かつて私・左藤が企画編集を担当していた批評系同人誌「前衛批評集団 大失敗」の2020年の5月に発売された機関紙『大失敗Ⅰ-2 からだ——身体・文体・国体』に掲載した「建築論」である。わりと時事的な問題も扱っているが、執筆時期は2020年の2〜4月ごろであり、情報はさらに更新されている可能性があることに留意されたい。 ※元の本文には33個の注があったが、Noteには脚注機能がないため、やや手を入れた。本文中に組み込んだりしている。このため、若干の見辛さを

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          コンテンツ地獄用メモ

          前置きこんにちは、左藤(森脇)です。以下のイベントに出演しました。今年の(私的)コンテンツベスト3について話したのですが、それにあたって作ったメモに多少即興で喋ったことを足して公開します。けっこう緊張したのでやや早口で喋ってしまいましたが、瀬下さん・ジョージさんのおかげで楽しく年末を過ごせそうです。ありがとうございました。 若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(2020.10.10)・これを読んでいない左翼は左翼ではない ・ネオリベ資本主義に疲れたオードリ

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          読むことの始まりにむかって——暫定的な「総括」の試み

          前置きここに掲載するのは、私が主宰するオンライン上の読書会、哲学者ジャック・デリダの著作『グラマトロジーについて』を読む会(「「読む」とは哲学的にいかなることなのか?」)第8回において読み上げた原稿である。 9月から始まり、二週間に一度規則的に開催されてきた読書会は、第7回(12月12日)をもって『グラマトロジーについて』第一部を読み終わった。その後、読書会ではいきなり第二部の読解に入るのではなく、第8回(12月26日)に間奏的な第一部の「総括」の会を設け、比較的自由な発表

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          読むことの始まりにむかって——暫定的な「総括」の試み

          「人文学の必要」について考えたこと

          経緯僕は大学院でジャック・デリダという哲学者について研究している。 最近は、自分の研究のためにも、デリダの主著『グラマトロジーについて』について、隔週でオンライン上の読書会を行っている(神戸大学で文学研究をしている盟友・松田樹さんが、協力で入ってくれている)。 読書会という語で、あなたはどのようなイメージを持つだろうか。この読書会について言えば、毎回僕が20〜30ページを読みレジュメを作成したうえで、だいたい1時間かけて発表し、その後また1時間程度で一般の参加者の皆さん(凡

          「人文学の必要」について考えたこと

          「読む」とは哲学的にいかなることなのか?——デリダを読む会のお知らせ

           ※参加者募集締め切りました! (割と真面目な)前置き 『眼がスクリーンになるとき』で知られる哲学者・批評家の福尾匠さんは、かつて短い「研究手帖」の中で、現代の思想的潮流を「読むことへの疲れ」とまとめています(「思弁的実在論における読むことのアレルギー」、『現代思想』2019年1月号)。それに対し福尾さんは、デリダやドゥルーズといったポスト構造主義のスタイルを「読むという経験の受動性を哲学に内在化させる試み」と形容して、いわゆる「思弁的実在論」に対置させるのです。  この

          「読む」とは哲学的にいかなることなのか?——デリダを読む会のお知らせ