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誰かに「怒る」ことについて考えてみた。

どれだけ気の合うと思った人でも、同じ方向を目指す仲間でも、お互いを想いあっているその相手でも「他者」であるとよく感じる。自分とは違う人。

「自分とは違う」言葉にするのは簡単な気がする。いろんな人がいるよね、そういう考え方もあるよね、って日々口にしている。ただ相手のことを自分とは違う一人の人間として真剣に、そして本気で考える心を持てているかは分からない。人のことは理解できるとは思わないけれど、目の前の人に向き合える、そんな人に私はなりたい。

己の持つ価値観の中で相手に期待して、裏切られて、自分の思いどおりにならないことやその相手に怒る人がいる。

あなたの価値観が宿った目で見る相手。その「相手」は本当に見えている状態なのだろうか。怒りを伝えるとき、その怒りを向けられる相手の心はどんな状態か考える余白はあるのだろうか。一見自分と相手の違いを明確にした上で、相手との理解を深めるために怒りという感情をむき出しにするようだが、本当にあなたが相手と真剣に理解する体制は準備できているのだろうか。

いろいろ考えて、答えを出してみた。相手の立場を考えず怒りを表に出す人は2つの選択肢しか思い浮かばなかった。

一つは思い通りにならなさと向き合うこと。思い通りにならないことで相手を見る目に蓋をしてないか、その人が自分にとってどんな存在なのか、どんなメッセージを送っているのか。相手に思いを馳せてみる。

もう一つは、自分にとって都合のいい人間とだけ付き合うこと。他者に対して思い通りにならないことに向き合うことなく、ストレスを感じている人を見るのは歯がゆい。人に対して不平不満だけを口にしている人の言葉は受け入れがたく、耳も辛い。

このことについて考えながら、何が私を苦しめるかというと、その思いどおりにならなさと向き合えていない(と私が勝手に思っている)その相手を理解する姿勢を私自身が諦めていることに気づいてしまったこと。人に期待していることも、怒りも何も否定しないし、それら自体問題ではない(と信じたい)。その理由はいたってシンプルで、その期待も怒りも確かに存在しているから。その人のことだってなんなら私は理解し合いたい、言葉を使って。ただ「どうせ」とその人との心からの関わりを諦めてしまいそうな自分もいる。私もそういう人を自分とは違う「他者」としてみることができていない。

私もまだまだ人に何かを求めているんだなぁ。「思い通りにならなさ」に突っかかっているんだなぁ。理解し合いたいなんて思うことすら傲慢なことなのかもしれないね。

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