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なぜそうなる?・サンクコストの呪縛なのか?

公序良俗に反していない限り、他人の行動を、第三者がどうこういう筋合いも意味もない、とは思う。
行動は、ベースに、育った環境・教育・個人の価値観・時代背景等があり、たまたま発生した欲求や精神的逼迫度等々、必然や偶然が絡んで引き起こされる。全く同じ環境・個人であっても常に同じ行動をとるわけでもなく、人間存在そのものがVUCAだなぁと思ったりする。
となると、行動を合理的か非合理的か、の目線で見ること自体に意味ないのでは?と思いながらも、どうしても気になって仕方ないことがあるので以下記す。

スーパーマーケット等で、店舗のカゴを使わず、両手に結構な量の商品を持って買い物する人を、ときたま見受ける。
一品だけ買って、さっと会計する、ということであれば十分理解できるし、コンビニなどであれば普通の行動だ。
私が気になってしょうがないのは、両手にそれなりの量を持って結構な時間買いまわっているタイプの人。明らかにカゴに入れたほうが持ち運びやすいし、商品を追加で選ぶ際など、手持ちの商品を落下させずに積み重ねようと、アクロバティックな振る舞いをする人である。

子供の頃からこういう人が不思議でならなかった。一方で、どういうわけか子供心には、”〇〇スーパー”と書いてあるカゴを持ってる姿が「かっこ悪い」、というような気持ちもあったような気がする。私だけだろうか?他の人はどうなのだろううか?
私の子供の頃と同じ感覚の人がいる、ということなのだろうか?

でも最近、これは「サンクコスト」と同じ構図なのでは?と思うに至った。
推察するに、あの人たちは、当初は1,2品だけ買ってさっと会計するつもりだったのだろう。ところが、店内で想定外商品の購入欲求が発生したに違いない。この時点で、当初想定と異なる状況になったわけだが、”さっと会計して店をでる”、という過去の自己決定を捨てきれず、カゴを使えば現状を最適化できるのにも関わらず、あえて使わないのではないか? 端的に言えば、カゴを使うと当初の自分の決定を覆すことから、自分が負けたような気持ち・自己否定してしまうような感情になるのではないか?結果、手とカゴの適正使用分岐点を異常値まで引き上げることで、自己正当化しているのか?

さて、ご本人はそんなこと思ってもいないだろうし、問題意識さえないだろうが、無意識化ではこんな葛藤が行われ、当初の決定が神聖不可侵な存在となっているように思える。
第三者の目線からすれば、その姿に合理的要素が見いだせず、必死にバランスを取り続ける様子は、もはや滑稽にすら感じられる。
これがサンクコストでなければ、途中からはカゴに持ち代えたくない現状維持バイアスか?
いずれにせよ、自分で束縛を作っておいて、そこから抜け出せなくなる人間の弱さを見る気がする。

と、他者を冷笑するようなことを書いてしまったが、自分も本質的にこれと大差ない行動、もしくは意思決定を行っていることだろう。
いや、認識できていないだけで、きっと何かやってるに違いない。
メタ認知のありようとして、こんなことも気を付けていきたいと思う。

PS:よく、スーパー閉店間際の半額セールが、サンクコストに対する効果的な対処方法として例示される。まさにその場に、両手に商品を持ってる人がうろうろしていると、その場全体としてはサンクコストが”中和”された状態と言えるのか?など、これを書きながら新たな気づき(なのか?)が得られて嬉しかったりもする。

ともかく、言語化できて、すっきりしました。





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