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一つ回収に近づく。ゴルギアス・テーゼ

大昔、大学卒業時テニスサークルのコメント欄に残した自分の言葉。
”主観の総和は客観になるのか?”
勉強しないアホ学生、一方でバブル期の余韻で就職はさほど苦労もなし。大学が総合レジャーセンター?と化していた時代にあって、ふと湧き出た疑問。

その後社会人として30年以上、人並みの経験はしてきただろう。その間「なぜ他者とわかりあえないのか?」「なぜ他者はあのような振る舞いをするのか?」ふと感じた疑問は、姿や形を変えていろいろな局面で現れてきた。
1人人類補完計画だったのかもしれない。

ところが、ここにきて人生の回収モード?に入ってきたのか、とにかく学びが楽しい。「あぁ、そういうことだったのか!」と回収している感をときどき感じる。まさにリベラル・アーツ万歳!だ。
そんななか、ふと手にした入門的な哲学書から、自分の抱えていた疑問は、しっかりと問題認識&ネーミングされていたことを知る。

理解が正しいか甚だ怪しいが、昔からゴルギアス・テーゼとして、存在と認識の一致を証明できない、という問題として捉えられていたようだ。
この問いへの回答は、残念ながら私にはまだ理解できない。
ただし、自分の問題意識が先人のそれと共通していたことへの安心感と、山道で突然目の前に正体不明な何かが現れたが、とりあえず顔を見ることができ、それがイノシシと認識できた、何も解決はしていないが何故か感じる安堵感、みたいな思いだ。

この一連のプロセスからは、大学時代さっぱり学ばなかったことが、現在の学びの動機=「回収したい!」に繋がっている感覚もある。なんか妙なわくわく感を感じる。


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