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怒涛の歴史に翻弄された豪華客船「氷川丸」

横浜の山下公園にポツンと係留されている「氷川丸」。一度中を見学してみたいと思いながら、なかなか機会がなかったのだが、念願かない先日やっと船内を見学することができた。

氷川丸とは

日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた12000t級の豪華貨客船。神戸・横浜〜北米シアトル航路で運航されていた。
日本観光後にチャップリンが横浜からシアトルまで乗船したり、イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に出席した秩父宮ご夫妻がビクトリアから横浜まで乗船されるなど華やかな歴史が残っている。

過酷な歴史の波に翻弄される氷川丸

しかしながら「氷川丸」が竣工された1930年〜1940年代は満州事変が勃発したり、ドイツではナチスが独裁政権となり、二・二六事件が起こるなど、日本だけでなく世界中で戦争の火種が燻り、とうとう第二次世界大戦に突入してしまう時代である。

「氷川丸」も時代の波を受けて1940年から1941年には北米に逃れるユダヤ人を運んだ後、1941年8月にはシアトル航路は休止となり、9月〜11月には邦人引揚のために北米から横浜に運行された。

1941年11月から「氷川丸」は海軍に徴用され、横須賀で改装されたのちに「海軍特設病院船」となる。船体は白色塗装され横には緑の線と赤十字が描かれた。改装を終えた氷川丸は戦地に赴き、時に空襲や魚雷の攻撃に遭いながらも負傷兵や引揚者を収容し、南方の激戦地に出動すること28回、3万名以上の傷病兵を運んだ。船内では手術も行われ、残念ながら命を落とした兵も多数出るなど船内は常に悲惨な状況であった。

1945年8月に舞鶴海軍工廠で終戦を迎えた「氷川丸」は、横須賀地方復員所管の特別輸送船となり帰国者の引き上げ任務に従事し約45,000人の引揚者を運ぶこととなる。

1年後特別輸送船の定めを解かれた後はしばらく国内航路に就役し輸送任務に従事したのち、1953年に11年ぶりにやっと本来のシアトル航路に復帰できた。

最終航海は1960年8月27日に横浜からシアトルに出港し10月1日に横浜に戻り10月3日に神戸に到着。神戸から横浜に回航され太平洋横断238回をもって航海を終えた。

解体の危機や運営会社の解散も乗り越えて余生を横浜港で過ごしている

最終航海の後は解体の予定もあった氷川丸であったが、市民から保存を望む声もあり大規模補修された後「氷川丸マリンタワー株式会社」所有となり、見学施設として1961年5月に山下公園に係留され2003年には横浜市指定有形文化財に指定される。しかしその後入場者数減少のため「氷川丸マリンタワー株式会社」は解散。船体は日本郵船に譲渡され「日本郵船氷川丸」として一般公開されている。

2016年には戦前作られた貨客船としての文化的価値が評価され国の重要文化財に指定された。海上で保存されている船舶としては初めての文化財である。

船内は豪華で当時の上流社会の空気を垣間見ることができる。

船内はアール・デコの装飾で中央の高い天井など豪華なしつらえである。一等喫煙室には世界の上級品のお酒やタバコが揃えられ、一等特別室には壁絵など竣工当時の姿が残されている。メインホールでは夜はダンスパーティの会場になるなど一等船客の社交の場として優雅な装飾が施されている。

船内に入るとすぐにアール・デコ調の装飾が迎えてくれる
大人がパーティや食事している間はここで子供を預かってくれた
天井も高く豪華なしつらえの一等船室 
夜はパーティも行われていた

昭和初期当時海外旅行は大変お金がかかり贅沢なものだったため、ほんの一握りのお金持ちだけがこの氷川丸に乗って豪華な旅をすることができたのでしょう!

毎日正午には時報がわりに汽笛を鳴らし、新年を迎える際も汽笛を鳴らすなど山下公園のシンボルとなっている「氷川丸」。時代の波に翻弄され過酷な経験をしてきたのだなと思うとシンパシーを覚えずにはいられない。
「本当にお疲れ様だったね。ゆっくり余生を過ごしてね」と思わず労りの言葉をかけてあげたくなってしまう。また同時にこの優雅な船体を海上に係留し続け、維持されている日本郵船さんにも拍手を送らせていただきたい。

優雅な船体からは想像もできない激動の時代を生き延びた豪華客船「氷川丸」
船好きさんはもちろん!内装好きさんにもオススメの見学スポットでございます。


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