「対(たい)」をもってコトを成す

最近、よく「対話」とか「対峙」とか目にしたり、自分としても語る機会が多くなったので、この「対」について真剣に捉えてみたいと思う。

コミュニケーションも、「会話」ではなく「対話」で成すべきものだ。というのは擦られまくってきた話だ。

システム開発における上流工程においても、アジャイル開発における流動性の中においても、やはり「対話」の重要性は高く、昨今では「Shft Left」が叫ばれるようになりましたが、これもテスト工程をより上流工程から組み込むことを指していて、「対話を後回しにせずに常にやっておけよ。」と、個人的には理解しています。

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「対(たい)」とは、
「向かい合う。二つが向き合う。」
「相手になって受け答えする。」
の意で、相対するものがいてはじめて成立するもの。

だから、相手に意図が通じない会話は「対話」とは言わず。相手もこちらに意味が通じない会話ならそれは「対話」とは言わない。

齋藤孝先生の著書から言葉を借りると、日本語で会話ができてるつもりでも実際には対話ができてないケースが多いし、対話できてると簡単に思わないほうが良い。ということ。

そこで大切になるのは「共通言語」とか「共通語彙」を定義すること。
人は、同じことを話しているようでいて、同じ言葉でも全く違う意味で会話してる可能性が多分にある。

これは、ドメイン駆動設計の文脈だと、「ubiquitous language」として表されている。

What is Domain Driven Design?

Focus on the core complexity and opportunity in the domain
Explore models in a collaboration of domain experts and software experts
Write software that expresses those models explicitly
Speak ubiquitous language within a bounded context

とても面倒くさいことだし、分かってるつもりになっている人にはとても苦痛な作業だが、これを面倒臭がるから様々なところで破綻と分断が生まれているんだろうと思う。

共通の言葉を定義する、ということは、自分自身と相手のそれぞれと向き合うことになる。

特に重要なのは、相手以上に「自分自身」だ。
己のことほど、分かっているつもりになっていることはない。

彼を知り己を知れば百戦殆うからず
Know yourself as well as your enemy.
=敵を知ると同時に、自分自身を知れ

だから、ぼくたちは、常に自分自身と向き合う「ふりかえり」の時間を作る必要がある。相手を知ろうにも、己を知らずには、相手を誤った形で捉えているかもしれないから。

今、この瞬間を切り取るためにも「メモをとれ」
己と相手を知るために、メモを見て「ふりかえれ」
共通言語を定義しろ

そうして初めて「対」は成されるのだ。

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