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自然の摂理と演じること

意識的なところから無意識へ

先日、ロシアの大学を卒業され日本で演技コーチをしている方の訓練を受けた。

5日間という短い日程なので「体験レッスン」のような形にはなってしまうが、考えさせられることが多々あった。

そして今も考えている。

その訓練では身体の隅々を意識して使うことをまず徹底するそうだ。
意識されておらず眠っている身体パーツを目覚めさせるかのように、色んなポーズを使い、色んな身体の部位を動かす訓練をした。
初日の身体訓練後からすぐに筋肉痛になった。
足の甲までがじんわりと痛かった時には「こんな部分にも筋肉があるのか。そりゃそうか」と笑えてしまった。

意識的な訓練から無意識へ。
コーチのその言葉が印象に残った。

意識的に身体を使う。
そこから無意識に使えるように向かっていく。
そういうことなのだろうか?

あえて「だろうか?」とクエスチョンにしておくことにする。
わたしが感じたことも正解だかはわからないからだ。

いつだって、
その域に到達してみないと真理はわからない。


演技で意識したいこと

役として作品を生きる

ずっとずっと、
このことがまったく分からなかった。
今もその途中で探し続けている最中だが、
一つ新しい気付きがあった。

「すべては自然の摂理」

訓練最終日にこのような言葉がでてきた。

私たちが学ぶべきは、
この自然の摂理を舞台上でいかに「意識的に」行えるか。ということなのか?

万有引力、公転、自転のように生命の営みにはすべてに法則がある。
法則を知り、創られた世界のなかでその法則を当たり前に行う。

意識された身体状態でなければ、それは確かに自然に行うのは難しい…。

だからこそ役者には訓練が必要なのかと思った。

意識的に訓練を詰むことで、
無意識的に見える力をつけていく。

緊張したあとに解放感がある
悲しみのあとに喜びがある

すべての行動や情動、そして出来事はそれ単体ではなく連鎖した営み。
過去から止まらずに繋がり続けた結果が「今ここ」になる。
そして未来へと繋がる。

水に流れて運ばれる落ち葉のように。


留まらず流れていこう

私はすぐに「過去」や「今」に執着してしまう。
それは無意識に。

枯れ葉が水に流れていくときに、
なにかに引っ掛かり同じ場所に留まったように見えたとして。
しかしまったく同じ瞬間はないはずだ。

わずかな水流の変化、葉に水が当たる角度、時間が経つことで変化する葉の劣化具合。
一瞬として同じ時間はないはず。

それなのにどうして同じ瞬間に留まろうとするのだろう。
変化していくことは当たり前のことなのに。

哺乳類の本能として「変化」を恐れると聞いたことがある。
毎日決まった行動をすることで危険を回避するんだそうだ。
縄張りなんかもそうで、外に出ると敵に襲われてしまうかもしれない。だから自分のテリトリーから外へは出ない。
そういった本能が人間にも備わっているんだそうだ。

子どももルーティンを好む傾向があるそうで。
我が子が気に入った食べ物を見つけると、そればかり食べ続けるのもそういった本能なのかなぁ?と見ることがある。

常に変化を容認していく勇気が必要なのかもしれない。

ここで急に樹木希林さんのことを思い出した。
そういえば希林さんは撮影現場が1つ終わると、翌日には台本を捨てていた。

希林さんは流れる落ち葉の如く、常に次の瞬間へと流れていこうとしていたのかもしれない。
「一切なりゆき」という名言もある。

希林さんの「なりゆき」とは、そういうことなのだろうか?

ここでも、やはりクエスチョンにしておく。

執着してしまう私にとって、
そこに到達してみないと分からないことだから。



そうしてまた、私の「演技を探求する」旅は続く。

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