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大林宣彦監督最新作『海辺の映画館 〜キネマの玉手箱』がとんでもなくて震えた

※大林宣彦監督は、この記事をアップした2日後、それもまさにこの映画の公開予定日だった4月10日(金)19時23分に亡くなってしまいました
どこまでも映画人だった監督らしいなとちょっと思いました。もしくは、「よーい、スタート!」って言われた気持ちがしました。終わりではなく、始まりの日。

コロナウイルス禍による緊急事態宣言でこのまま映画公開が延び続けたら大林監督が生きていらっしゃるうちに書けないかも、と、急に思い立ってこの記事を書いたのでした。生きていらっしゃるうちに書けてよかった。

ボクは大林監督と同時代を生きられて本当に幸せでした。大林宣彦監督、ありがとうございました。


本当は今週末(4月10日)に全国公開の映画だったのです。

でも、新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言で、いったいいつ公開されるかわからないので、先んじて書きたいと思います。


大林宣彦監督の最新作『海辺の映画館 〜キネマの玉手箱』を試写会で観たのはコロナのずっと前、今年1月くらい。

ひと言でまとめるとこうなる。

とんでもなくて震えた。


たしかにボクは大林映画を偏愛はしている(特に好きなのは『転校生』と『廃市』)。


だからポジティブ・バイアスはかかると思う。
でも、そういうのを差し引いても「ちょと異次元な、とんでもない映画を観た」という感想だ。ええ、むちゃくちゃいい意味で。

ちなみに、映画を観始めて30分から1時間くらいは、とにかく、とにかく映画の内容についていってください

ちょっと自分たちの脳みそを撹拌される新しい体験をするので、人によっては「ええええ!もうわけわかんない!」って匙を投げるかもしれない。

でも、とにかく、ついていってください。

1時間くらい経ったら、それまで「いったいなんなんだ」「だっさ」「やっす」「しょっぼ」って思ってたことが、少しずつ回収されていき、2時間くらい経ったら「うおおお・・おおお?」ってなり、その後は「うわ、なにこれ・・・」ってなって知らないうちに泣いている、という驚異の展開になる。

あぁ・・・、映画でこういう体験ができるんだ・・・。

終わってしばらく席を動けなくなること必定。

ここから先はネタバレを含むので、観る前にそういうのを読みたくない方はぜひ読まないでください。

ただ、ストーリーっぽいことには触れてません。触れようがない。そのことも観ればわかります。

現在、新型コロナウイルス感染拡大により、2020年4月10日公開が延期になっているけど、なんとか生き延びてもう一度この映画を体験したい。

あと、これ、家で見たら気が散ってしまうと思う。
細部までどっぷり体験してほしい。
だから、劇場公開中に劇場の暗闇に閉じ込められて観るのが大オススメです。


以下、ネタバレを含む、この映画の感想です。

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=========ここから感想=========


「時代の観客でいてはいけない」というメッセージを強く受けとったな、と思った。

映画(キネマ)はストーリーを見せるものだけに、観客を観客たらしめる。
そして観客たちは映画においてそうであるように、時代においても観客になってしまう。それが幾多の戦争を引き起こした。

観客でいてはいけない。
「時代というストーリー」の中に入らないといけない。
すぐに入って強く関与しないといけない。

そうしないと取り返しの付かないことになる。。。


そのことを、観客である男三人(あえて無名の役者たち)が映画の中に入っていき、次第に覚醒し、殺し合いや戦争映画の理不尽なストーリーにいろいろとコミットしだす、というアプローチで描いたものかな、と感じた。

それを描くために、老齢かつ闘病中とは思えない迫力で、大林監督は新しい手法を編み出したと思う。

映画の中身からリアリティを排除するために、チープな合成と色彩を使っており(映画「HOUSE」を思わせる)、また、役者が言っているのかナレーターが言っているのか、誰目線で言っているのかわからないようなナレーションやスーパーを多用して、観客の外と中の境目を曖昧にしていく。

ものすごく新しいなぁと思った。

また、中原中也を始め、様々な脚本家や映画監督や演出家などを出演させることで、彼らの詩や文学や舞台や映画が地道に訴求してきた平和が簡単に壊されてしまう世の中を描いてもいるし、観客に「つくる側」に立たせる(観客でいさせない)アプローチも試しているな、と。

そして、高橋幸宏という宇宙旅行者と、小林稔侍という映写技師の、ふたりの狂言回し。
このふたりだけは絶対に映画の中に入らない。あのふたりの「爺」はいわゆる「目撃者」なのだけど、そういう俯瞰視点のために配置しているのだろう。

もう、そういう俯瞰視点と、時代の観客と、時代の役者。そして中原中也の詩。それらの入り乱れ方が、ほんと、狂ってる(いい意味で)。

失われたものは戻ってこないけど、だからこそ美しく愛おしい。。。そういうテーマを一貫して描いてきた大林作品だと思うのだけど、「そうやって愛でることしかできない映画の限界」と、「そうやって愛でることでしか伝わらないものを伝えられる映画の素晴らしさ」の両方を見事に描いているな、とも思った。

台詞でこんなのがあった。

「恋人を自ら選ぶ心で、平和を疑いなさい」

いま、本当に時代が危ない。
彼はそう叫びたかったのだと思う。平和を疑え。すでに「野卑時代」だ。客観的な観客でいるのをやめろ。動け。

そう叫ぶとともに、終始作り手側の存在を感じさせることで(冒頭の仲間紹介からずっとこの映画の作り手側を称賛してた)、「私は、すばらしい仲間たちとこの映画を作って『時代』に関与したよ。で、あなたは誰と、どう関与するの?」と、観客に問いかけてもいると思う。

本人が出演して、幸せを運ぶ座敷童の前で、むちゃくちゃなピアノを弾いて、座敷童がどこかへ消えちゃうのを必死に食い止めている大林監督の場面があったけど、座敷童が日本から出て行っちゃうことを食い止めるためならどんな道化でもするぞ、という覚悟だったのかなぁ、と思う。

新選組から龍馬から白虎隊・娘子隊、大東亜戦争、沖縄戦、自死の数々、介錯の数々、そしてピカドン。。。

全部をつなげて、壮大な戦争体験映画にしたんだなぁ大林監督。

聞いたら、編集は大林監督とオペレーターのふたりでやってる。いやいやこの映画の編集、どんだけパワーいんねん、と。

しかも、台詞はほぼアフレコ。
MA(音の調整)も地獄だったろうなぁ。健康体でも地獄な作業。
編集時点でいろいろ台詞も変えてるからだと思うけど、ある意味、リアリティを排除する手法のひとつかな、とも思う。

いや、とんでもない映画でした。傑作かも。
あまりにもとんでもないので、賛否両論だろうけど。

敢えて言えば、ラストの10分の説明はいらなかったかな。もう2時間50分で全部伝わったよ、観客をもうちょい信じてもいいよ、と、ラストあたりでは思って観てた。

映画って、こんな体験が作れるんだ。
それしか言いようがない。

大林宣彦監督が生きていらっしゃるうちに観られて本当によかった。



古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。