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「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」

明日の言葉(その25)
いままで生きてきて、自分の刺激としたり糧としたりしてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。


今日、「午前10時からの映画祭」で、デジタル・リマスター版の『サウンド・オブ・ミュージック』を観に行った。

改めて泣いた。
10カ所くらいで泣いた。
すごい泣いた。
暗闇の映画館かつ大画面でこの名作を観れて本当に良かった。

平日なので、わりと無理して観に行った。
『スターウォーズ』の最新作(最終作)もまだ観ていないんだけど、この映画を優先した。

100回以上は観ている大ファンであることもあるし、この映画を大画面で観られるのもこれが最後かもしれないということもあるけど、なにより自分の感受性を守るために観に行った。

ボクにとっては、この映画は「感受性を守る最終ライン」みたいなもののひとつなのである。

こういう「水やり」を絶やさないようにしないと、ボクの感受性はわりと簡単に枯れてしまう。

情けない。
でも、なんとか守らないといけない。

自分の尊厳において、自分で守らないといけない。


自分の感受性くらい

           茨木のりこ

 ぱさぱさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにはするな
 みずから水やりを怠っておいて

 気難しくなってきたのを
 友人のせいにはするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか

 苛立つのを
 近親のせいにするな
 なにもかも下手だったのはわたくし

 初心消えかかるのを
 暮らしのせいにはするな
 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性ぐらい
 自分で守れ
 ばかものよ


有名な詩だから、知っている方も多いと思う。

ボクはこの詩を自宅のデスク前のコルクボードに貼っている。そうやっていつも目に入る場所に貼っておかないと、つい「忙しい」という便利な言葉を言い訳に、水やりを忘れてしまう。


どの段落もドキッとさせる言葉に満ちている。

それぞれの立場の人の心に響く言葉ではあるが、個人的には、まず五段目を反芻する。「時代」という言葉をその時々で言い換えたりして反芻する。

 駄目なことの一切を 会社のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
 駄目なことの一切を 仕事のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
 駄目なことの一切を 多忙のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
 駄目なことの一切を 家庭のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
 駄目なことの一切を 年齢のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
 駄目なことの一切を 政治のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
 駄目なことの一切を 日本のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄


自分の中の「尊厳」ときちんと話しあえば、駄目なことの一切が誰のせいか、すぐクリアになるはずである。

少なくとも周りの環境のせいではない。
なぜなら環境は自分で選んだからである。もしくは努力で多少は良くできるからである。

別に自己責任論を語りたいわけではない。
どうにもしようがない環境に生きている人もいるだろう。

ただ、何かのせいにした途端、人はそこで思考や成長を止めてしまう。
何かのせいにした途端、人は自己憐憫に陥って、その自堕落を許してしまう。

ボクもそうだ。
たった今も、気分がウツ気味なことを、突然なった食物アレルギーのせいにしている。

そういえば、配属が希望に添わなかったときはいろんなことを会社のせいにしたし、阪神大震災で被災したときはいろんなことを震災のせいにした。仕事がうまく行かないときはいろんなことを上司のせいにした。

そうすることによって助かることもある。
ある種の「精神的健康法」的なこと。

でも、いつまでもそれでは何も変わらない。文句を垂れているうちに、いつの間にか死の床だ。


では、そういう「何かのせい」にするような鈍さ・逃げ・醜さから脱却するために、いったい何をすればいいのだろう。

鈍くならないことだ。
逃げないことだ。
それは醜いということを忘れないことだ。

つまり、そう感じ取る「感受性」を常に守っておくことだ。


ボクはすぐにいろいろわからなくなる。
わかっていたことを忘れたり、鮮烈だったものが色あせてしまったり、せっかくこの手にしていた繊細な感覚をあっさり失ったりする。

だから、「明日の言葉」として様々な言葉を感受性を守るために身近に置いているし、本や映画や音楽、舞台やライブ、美術などをとにかく生活に取り入れている。

それでも、すぐわからなくなる。
すぐに忘れてしまう。
すぐに色あせてしまう。

感受性を守るのは大変だ。

でも、それは常に守り続けないと、取り返しのつかないことになる。

だから、ボクは今日も、デスク前のこの詩を読んで、「そろそろ水やりしないと枯れちゃうかも」とか「最近水やりさぼっているけど大丈夫かな」とか「次の水やり、いつしよう」とか考えるのである。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ。


さて、次の水やり、いつしよう。



古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。