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バー開業顛末記①「会いに行けないから、会いに来て」


6年前の今日、2018年3月23日。
行きつけだった大好きなイタリアンで「鯖のマリネ」を食べた。

アナフィラキシー・ショックを起こした。
その日の夜中に救命病棟に運ばれた。
ギリギリだった。血圧は上が60で下は20まで下がった。

人生初めてのアレルギーだった。
その夜を境に「海の魚介類」を食べることを禁じられた。
アレルゲンはアニサキスという寄生虫。
アニサキスでお腹が痛くなるのは「アニサキス症」。ボクのはそれを飛び越えて「アニサキス・アレルギー」というものだった。

アニサキスのタンパク質や分泌物に反応するので、生きたアニサキスはもちろん、死んでいても、その死体のカケラでも分泌物の残滓でも、命を脅かすアレルギー反応が起こってしまう。

つまり、海の魚(そのほとんどにアニサキスがいる)は、鮨も刺身も、焼いても煮ても、揚げても蒸しても、練っても摺っても、もう危険すぎて食べられない、ということになる。

海を経由した川魚(鰻とか鮎)もダメ
魚卵もダメ。海苔や昆布などの海藻も要注意(海から上げてそのまま干すタイプの海藻はアニサキス成分が残る)。

ダシもエキスも食べられない
ダシだらけの日本に生きる「食べ好き」にとってまぁまぁの地獄。ほとんどの和食が食べられなくなる。

そして、例えばおせんべいにもダシやエキスが塗られている。
つまりお菓子やスナック類もかなり食べられるものが限られる。

調味料類もいろいろ危ない
ポン酢はダシが入ってるものが多い。魚醤系も危ない。ソースとかもいろいろ入ってる。

隠し味は隠れてるだけにとても危ない
ラーメンやカレーの隠し味にダシを使う店がわりとある。たとえば牛肉弁当とかでも魚介ダシをふんだんに使っていたりする。なにしろ「隠し味」だからお店でも教えてくれず、もし入っていたら死の危険。

隠れているという意味ではたとえば「焼きそばの麺」に「しらこたんぱく」が入っていたりする。麺にそんな危険なの入っているなんて想像もしないよね。もしくは「チキンエキス」に「魚介エキス」が入っていたりする。意味わからん。そんな「隠れてる」例はたくさんある。

もっと言えば、海塩・天然塩も危ない
天日干ししたお塩とか、アニサキス成分がそのまま残ってるからね。

それってもう飲食店に行けない、ということ。
だって、塩を使わない料理なんてほとんどないし、「すいません、おたくのお店、どんなお塩を使ってますか?」なんていちいち訊いてもいられない。何度かトライしたけどクレーマー扱いされて心が折れた。

つか、医師には「海に入るな」とすら言われてる(食物アレルギーは経口と思われがちだけど経皮も多いのです)。

そう、ある医師の言葉だけど、わかりやすいのでお伝えする。

「アニサキスアレルギーとは『海水のアレルギー』と思ってください」


まぁ塩については「目をつぶってOKにしている」のだけど(そうしないと地球で生きていけない。というか避けようがない)、それでも翌日に大事な仕事があるときとかは念のためなるべく避けている。倒れるわけにはいかないからなぁ。

最近では研究も進み、「魚粉をエサにした陸上養殖魚や鶏、豚」もリスクがあることがわかってきた(牛や羊などの反芻動物はエサに魚粉を使ってはいけないという法律があるらしいからOK)。

陸上養殖魚はともかく、鶏と豚!

そんなん、もう、無理やん。。。



もちろん「食べられる店」はある。
食べられる食品もたくさんある。たとえばヴィーガンにすれば、いろいろ食べられるわけだ。

ただ、んー、どう説明すればいいかな。
「外食に行く」という行為自体が、いままで人生の大半を献げてきた外食のいろいろな美味しい記憶を引っ張りだしてきてしまう、というか。

行ける店はあるんだけど、その店に行くことがトリガーになり、美味しい記憶がぐわーーーっとやってくる。

仕方ないから「美味しい」という脳の回路を遮断して食べることになる。そんなの楽しいわけもない。

そんなことも含めて、外食や旅がどんどん「苦痛」になっていった
そう、旅も。
特に日本の旅は魚だらけだからね。そして旅と食の本を書いてきたボクには美味しい記憶だらけでもある。

60歳過ぎて少しヒマになってきたら旅と食の本を書きまくろうと計画していたんだけどな。アレルギーになる前は鮨教室にも通ってて、一通り捌けて握れるところまでは行っていて、ひそかなる計画もあったんだけどな。いろんな夢や計画がおじゃんになった。

本を何冊も書くくらいは外食や旅に詳しかったボクにとって、人生いきなりの致命傷だった。

ほんと致命傷。
よく生き延びたと思う。



キューブラー=ロスの「死の受容プロセス」によると、人は5つの段階を経て、死を受け入れていく。

「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」

ボクの「アレルギーの受容プロセス」もほぼ同じ道を辿った。

「怒り」の時期に「闘アレ」(アレルギーと闘おうと思ったわけですね)と称して「1000日チャレンジ」をいくつか始め、ランニングは1551日続き(いまは膝と腰を壊して休止中)、美術検定は1級を取得した。

残念ながら、どちらも食の代替物にはならなくて、結局「抑うつ」期に入っていった。

でも、この抑うつ期があったからこそ、ゆっくりと「受容」が進んだのだと思う。
5年目くらいから「受容」期に入っていった。

時間グスリは最強だね。



ただ、ひとつ問題が残った。

「友人に会えない」

外食や旅が「苦痛」になり行かなくなると、友人と会うことが本当になくなった。
食べ物持ち寄りの宴会ですらきつく感じるメンタルだったので、そんな場にも行けなくなっていった。

本業の方はそれなりに忙しいので打ち合わせとかは頻繁にあるのだけど、今やほとんどリモート。講演もリアルで行くと外食や旅が伴い、それがつらいのでほとんどリモートでお願いしている。

つまり、リアルで友人・知人に会うことが本当になくなってしまった。


これには途方に暮れた。

会える親友はいる。
これは不思議に相性があって、一緒に食事をしても外食が苦痛にならない親友が数少ないけど、いる。本当に助けてくれた(心からありがとう)。

でも、それ以外の友人と、本当に会わなくなった。
その友人たちのせいではもちろんなく、外食が伴うと一気に苦痛になる感じ。

お茶すりゃいいじゃん、と思うかもだけど、理由もないのになかなかお茶って誘いにくくて(昭和世代)。そして繁華街に出ると美味しそうな店の看板が目に入ってくるのもイヤで(美味しい記憶もたくさんあるし)。←自分のことながら面倒臭いヤツ。


時はコロナ期と重なる。
世の中がみんな「会えない」状態のときは、それでも良かった。

でも、コロナが終わると周りの人たちがどんどん会い始める。
会食もしはじめる。
楽しそうな会食の様子や美味しそうな料理の数々が SNSで頻繁に上がり出す。

「受容」が「抑うつ」に戻るのに、そんなに時間はかからなかった。



さて。どうすんねん、サトウナオユキ。

どうすんねん。
食を失った上に、友人まで疎遠になっていくこの人生。
人生100年、あと40年くらいあるぞサトウナオユキ。
このままずるずると土俵を割って引きこもるのか?
いったいぜんたい、どうすんねん!


ずっともんもんとしてた。

そんなある日、ふと思った。

「外食は苦痛で行けない。旅も苦痛で行けない。つまり友人とリアルには会えない。会いに行けない。会える場所も機会もない。。。だったら、会える場所や機会を、外食や旅以外で作れないかな?」

まぁそんなに難しい発想の転換ではないのだけど、そう思い至るまで時間がかかった。

外食や旅は当分「苦痛」のままだろう。
でも、友人に会う、ということについては、外食や旅以外に方法があるんじゃないの?

そして、日にちをかけて(いろんな試行錯誤をした上で)ゆっくりと自分の中でコンセプトが定まってきた。


「会いに行けないから、会いに来て」

そうだ。
ボクが外に出ていかなくても、友人に会う方法がある。

たとえばお店を作って、ボクがカウンターに立っていたら、やさしい友人たちが来てくれて、リアルに会って話ができるかもしれない。

食べ物も、自分が食べられるものだけ出せばいい。
というか、料理が得意、というわけではないから、料理店というよりバーかもな。つまみを少し出すくらいのバー(ノンアル充実)にするのはどうだろう。

この策には他にもいいところがある。
カウンターに毎晩のように立てば、外食に行くことが「物理的に無理」になる。
店をほったらかしにして旅に行くことも「経営的に暴挙」となる。

外食に行けなくなる。
旅に行かなくなる。
・・・ナイスだなぁ。

そしてボクの友人同士をつないでいくのも、きっと楽しい。

なるほど、バーね。

それはいいかもしれない。


・・・・そうしてひっそり「バー作り」を構想し始めたのでした。


(※タイトル画像は現在のバーの入口です)


続き(顛末記第2回)はこちらから。


古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。