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教えで「私」を上書きしてはいけない

多くの人間は、無自覚に自分が救われることを願っています。

その、救いが脅かされるとき、人間は、エゴを露わにします。

その一連の所作を信仰と呼びます。


宗教に入っているから信仰をしているわけではありません。

人間はすべて、思考という宗教の信者です。


信じるモノが脅かされるとき、人間は感情的に行動をします。

そして、他者を傷つける事を厭わない行動もします。


実際に衝動によって、行動をさせられている場面を多くの方が沢山知っているように思います。


わたしは、屈服させない言葉を使います。

そのことに気付かずとも、内側で知っている方々が、わたしのお伝えしている事を聞きに来てくださいます。


教えの言葉は、どうでしょうか?

立派な言葉は、人々を屈服させるために創造されました。

屈服によって、人々に教えを合理的に作用させようとしました。

なぜなら、当時の人間は、意識が今よりもずっと幼かったからです。

だからこそ、屈服させることが必要だった。

歴史を読み返してみるなら、その事実を感じ取ることができるでしょう。


千年前につくられた教えは、現代人にフィットしなくなってきました。

教えによって、教えで自分を上書きする事。

教えがつくられた当時、最善の教えが生まれました。

その時の最善は、今から見るなら苦肉の策。

わたしにはそのように見えるのです。

もちろん、教えに書かれている事は素晴らしい智慧ばかり。

教えを上書きする事によって、世の中に平和をもたらす事を意図していたように思います。

教えは、人間にとって、一定の成果を上げました、

しかし、教えという形が、都合よく考える人間たちによって、つくり変えられるという事は必然でもあります。

また、都合よく解釈できるのも教えです。

数千年の間、人間は教えによって、律するという事をしてきました。

その弊害も現代において起こっています。

正義感の奴隷は、教えを自分の正義の後ろ盾とし、自分の正義から外れる者を攻撃します。

他者を巻き込んで救いを求める必要はありません。

教えは、誰かが作ったもの。

それがどんなに尊い方であっても、教えという形は、人間を不自由にするのです。


何も信じることなどないとわかる事

人間は無自覚で、信じることで救われるという事に囚われています。

それは、社会の見えない仕組みでもあります。

何を信じる事もなく、人間は生まれてきます。

そして、成長していきます。

そこに、信じるという思考が挟まった時から、人間は可能性を限定していきます。

どんな教えであろうと、信じることがそのように働いています。

様々なレベルで、信じるという事が起こっています

宗教の信者になる事だけが信じることではありません。

ほとんどすべての人間は信じるという事を行動の起点にしています。

ここで、様々な思考が、読者に出てくることでしょう。

その思考も、あなたは疑いなく信じているのです。

だからこそ、そこから自由になる事がとても困難なのです。

このプロセスを自覚できるまで、自由になる事は難しいように思います。


このプロセスを捉えられるようになると、ユングやフロイト、アドラーなどの言っている事が、とても表面的で、的を射ていない事に気付く事でしょう。

これは、Xなどの多くの方が見るところにはあまり書けません。

彼らの考えに屈服した信者は、沢山いて、世の中の仕組みに影響を与えるほどにまでなっています。

一文で、心理学の多くの信者が、離れます(笑)

理由は、信者だからです。


自覚人はそれを知っています。

ですから、表で多くの事をかたらなくなります。


考えで上書きされた信者は、自分が何者であるかを忘れます。

今は、上書きできない子供たちが沢山生まれています。

それが、1000年前と全く違う現象を起こしていきます。

教えという形が、現代にフィットしていないという理由が伝わるでしょうか。


わたしは、その上書きから自由になるお手伝いをしています。

悟るという事は、上書きから自由になる事でもあります。

悟りは、人間が考えるような、素晴らしいものではありません。

悟った個が、自由に表したとき、たまたま素晴らしいと言われているだけです。

それも、人間の都合で・・・


教えによって、どれだけ人間が不自由になっているか、わたしから見ると明らかです。

しかし、それを人間が知る事ができません。

区別もつきません。

その教えが素晴らしいかどうか考えても意味はありません。

教えを上書きしている事に、問題があるからです。


信者同士で議論しても意味がないのです。

それでも、教えを着飾った信者が、批判をやめる事はありません。

・・・

今書いている事は批判でしょうか?

批判に見えいる方は、自分自身の中にあるモノを見ているように思います。

わたしは、批判でないとは言いません。

また、批判しているとも言いません。

答えはいつも、これを読んだ方にあります。

一人ひとり、違う答えに付き合う事はしません。

合理的ではないからです。

わたしが使う、「合理的」とは、理にかなっているという事。

人間が使う合理的とはちょっと違います。


差別が心の中にある方は、わたしが、差別しているように感じるかもしれません。

しかし、それは、わたしに問題があるわけではないのです。

ここまで、読んできた方にはわざわざ説明する必要もないですね。


さて、今回、最も重要な場面。

それは、途中あった、太字のところ。

それに向き合うなら、あなたの中から大いなる自由が溢れ始めるきっかけになります。

それを頭の片隅に置いて、数日すごすだけでも、随分大きな変化に繋がっていくはずです。

取り組んでみてください。


もっと、早く信者を卒業したい方は、わたしのところに来てください。

ある程度の理解力があるなら、自然に悟りに至ります。

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ここまでお願いしても登録しない方は、そうとうな何かがあります(笑)


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