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利他と自由は両立できない?

僕はよくよく「利他的に生きるほうが美しい」と発信してます。

ただ誤解もあるようです。「自分を押し殺して、我慢して、誰か人の為に尽くそう」という自己犠牲的な話として、聞こえる向きもあるみたい。

そうじゃなくって!という話が今回の主題。「利他であること」と「自分のやりたい事をやって自由に生きること」は全然両どりできるんです。というか、どちら片方だけじゃあ、幸せになれない気がしてる。

「利他であること」

利他的であろう!というと誤解されやすいのですが、何も特別なことじゃないです。

お年寄りがいたら席を譲ろうよ。
困ってる同僚がいたら声をかけようよ。
トイレをあとで使う人のことも考えようや。

と、まあ、そんな話です。

「利己的に生きるのをやめる」というアンチテーゼ的に捉えた方が早いですね。

別に、「人生を賭して慈善活動を身を捧げない」とかそんなことは言わないわけです。

「やりたいことをやること」

一方で、やりたいことを自由にやること、こっち方も誤解されてます。「利他的に生きるより、やりたいことをやって生きる方が簡単だ」という誤解。なんだかそんな気がしてません?

利己嫌い!利他で!と声高に叫ぶ僕ですが(実際には叫んではいないけど)、
一番憧れるのはどんな存在かというと、慈善事業家とかマザーテレサとかではなくって、ロックンローラーなんです。(ジャニスジョプリンをフィーチャーしまくってた頃のSuperflyや、毛皮のマリーズの頃からの志摩亮平とか大好き。N,夙川ボーイズもハマった)

彼ら彼女らが最高なのは、もう自分のやりたいように、そこに何の制限もかけずに生きてるところ。一切の制限を取っ払うリアルな姿がカッコいい。一切J-POPに媚びない姿も。

これ、実際に自分でやるの、難しいっすよ。

みんななんらかのキャリアに対するモヤモヤを抱えてると思うんですが、まさにそれ。自分でやりたいことをやる!というのは、実は電車で席を譲ること以上に、めっちゃ難しいことなんです。ことさら、色んなものが飽和した現代を生きる僕らには。

お腹いっぱいなのにお腹じゃない場所がハングリーなんです。

利他と自由

わかりやすくまとめれば「電車で席を譲る志摩亮平であろう」という話です。(志摩亮平氏なら実際に譲ってそうなので実際そうなのかもしれないけど)

利他ー!って人たちの中には、確かに、自己犠牲な信条の人たちも見受けられます。でもね、僕はそれだけじゃ、その人は幸せにはなれないんじゃないか、ひいては、社会のためにもならないんじゃないか、って思います。

一人ひとりが、自分の才能や欲望に制限をかけず、存分にやりたいことをやってパフォーマンスを最大化させること。それも凄く大事な事です。

利他的なベースに立って、その上で制限外してやりたいように生きる事。そのほうがその人個人も幸せだし、社会をよりよく変えてくインパクトも大きい。

だから、「後の人のことを思ってトイレを綺麗に使うマーヤであろう」と今日も僕は思うのです。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!