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感謝って難しい。「与えられている」ことに気が付けないと、そもそも感謝に至れない。

10年前、僕は大学院生でした。感性学の修士。「感性学ってなあに?」ってみなさん思われたかと思いますが、ご安心ください。卒業したくせに、僕もいまだによくわかりません(笑)。感性学の深い話はまた別の機会に譲るとして、

今日は、ゼミ旅行の話。

ある日、僕のゼミで、ゼミ旅行に行くことになったんです。たしか熊本の旅館を先生が手配してくれて。僕らは何も考えずに、ヤッター!って感じで行きました。けっこういい感じの旅館だった気がするのですが、あんまり高くなかったような記憶。こんなもんか〜と思いながら、先生が手配するままについていくわけです。

学生の旅行ではまず行かないような、本当に文化文芸に触れる旅程が組まれていて、最初は多少の退屈を感じながら過ごしていた僕だったのですが、ある和傘の職人の工房におじゃましまして、そこで、合理主義一辺倒だった僕のすべてを再構築するような衝撃を受けて、僕は人間性を回復するのですが、それもまた別の機会のテーマにとっておくとして、

要は、その旅行、学生も行けるお値段で、旅程はめちゃくちゃ充実していた、というわけです。


翻って、本日。

4歳と2歳の長女を連れて、嫁さんも喜ぶような旅行先はないだろうか、と、嫁さん希望の和風な畳のある旅館を探すわけなのですが、そのときにふっとそのゼミ旅行を思い出しまして、

僕は気づかなったけれど、ゼミ旅行だからこそ、先生が一定負担してくれているから学生は安価で行けたんだろうし、
あんなに文化や伝統に深く触れ、記憶に残る旅程を組むなんて、そんなに簡単な話じゃあないな、と。

ゼミの先生が金銭的にも教養的にも、どれだけ僕らに「与えて」くれいたのか、なんか、10年経って、親になって、ようやく骨身に染みてわかってきたんです。

あのとき、その有り難さに全然気がついてなかったんだな、って。

これは、僕が旅行を企画する側になったから気づいた、というような「立場が変われば気づくよね」という、そんな話とはちょっと違っていて、

「与えられているのに、与えられていることに気づいていないこと」って、実は結構あるんじゃないかな、という。そして10年くらい経ってから、「あ、あのとき僕は与えられて(もらって)いたんだ!」と気づく、という。

それは、親とか、小中高の先生とか、友達とか、先輩とか、そういう人たちからの好意的な贈与を、当時は全然気づかずに、あるいは気づいてこそいるがその有り難さの本質に考え及ばずに、なんとなく受け取ってしまっている。

そんなことが、よくよくあるのかもしれないな、と。

だからたぶん、こうしている今も、僕は全然自分では気づいてなかったり、感謝しきれていなかったりするような「与えられていること」がきっとあって、

10年後くらいに、「あのときにありがたかったなあ」なんてつぶやくんでしょうけど、

でも、だったら。

ちょっとでも、一寸でも。今の僕に「与えられていること」に気づいて、感謝できるように、アンテナをしっかり張り巡らせたいなと、そう思うのです。

感謝って案外難しくて、「与えられている」ことに気が付けない人は、そもそも感謝に至ることができないものです。

「毎日に感謝ー!」って声高に叫んだりするような、そういうメルヘンな自己啓発とも違って、それって結局「与えられている」ことに気づいてないまま、わけもわからず手当たり次第に感謝してるだけなので(苦笑)、

ちゃんと、丁寧に、今の自分に与えられていることに気づける人でありたい、できる限り気づいて、感謝していきたい、と。

改めてそう思った3連休でした。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!