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くまが冬眠から目覚める季節を”年度末”としか思えない人はどうぞこちらです

「こんにちは、はるですよ」
これは、今日21時頃の僕のセリフだ。

なんてことはない、子どもたちへの寝る前の読み聞かせの絵本の一節。冬眠からくまさんが目を覚ましたり、蜂さんが花の蜜を吸ったり、なにかと春めいた風景が描写され、このセリフが繰り返されるという、そういう絵本。

春が来ました。気がつけば、春。というか、3月。年度末。
そう、哀しいかな。僕のようなセカセカと生きる大人にとって、3月とは「春」というより「年度末」というシーズンなのだ。

だからこそ、「こんにちは、はるですよ」と自ら何度も声に出し、1ページ1ページに描かれる春の風景について幼児たちからナゼ?ナニ?の猛攻を受けるうちに、あっという間に、目の前の景色って過ぎていくんだよな、と。

くまが冬眠から目覚める

もちろん年度末なんだけども、忙しいんだけども。3月ってシーズン的には「春」なんだよね。ここで言いたい「春」というのは、出会いと別れの季節とか、新しいスタートを切るみたいな話では全くないことを先んじて指摘しておきたい。

そういう意味的な「春」ではなくって、くまが冬眠から目覚めるとか、畑の土を触ったらおひさまの匂いがしたとか(おひさまって匂いしないんだけど、この表現で伝わってくるの不思議)、意味を問えばよくわからなくなるような、五感的・景色的な「春」のこと。ただただやってきた通り過ぎていくだけの「春」。フキノトウが芽吹くときに、僕ら人間の誰が出会おうが別れようが知ったこっちゃないわけだ。

脱・意味的に生きる難しさ

最近の僕のテーマでありながら、体現するのが至極むっずいんだけども、絵結論から言えば、「意味」を取っ払った先に、ホンモノがある。というふううに、なんだか最近強く思う。

たしかに、意味って大事ではあって、自分の人生の意味はなんだろう?みたいな高尚な問いにまではいかないにしても、自分がやっていることの意味は誰だって知りたいものだとは思う。

NASAでトイレ掃除している人に、「あなたは何の仕事をしているのですか?」と尋ねると、「人類を宇宙に飛ばす手伝いをしている」と返ってきた、という有名な逸話があるけれども、

要するに、「ただ掃除をする」のと、「○○のために掃除をする」というのとでは、仕事のパフォーマンスはもちろんのこと、本人の幸福度みたいなものも大きく違ってくるよね、という。

誰だって、意味もわからず「スコップでひたすら大きな穴を延々と掘れ!」って言われて、日がな一日穴を掘るってなったら、なんか嫌になってくるんじゃないかな。

今は仕事のことを例に出したけど、僕らの人生の大半って仕事に関わっているし、仕事以外のところでも、結婚とか育児とかでマウントを取り合う僕らの伝統芸能も、結局のところ、「どっちがすごいか?えらいか?」という意味づけの世界に生きているわけで、

残念ながら、僕らの世界は、右も左も「意味だらけ」になってしまっている。意味から逃れることってめちゃくちゃ難しくて、「脱・意味的」な時間を過ごすことの難易度がめちゃんこ高いのが現代社会な気がする。

日がな一日穴を掘るのって本当にイヤですか

さっきは例で、意味もわからず1日中穴を掘るのはさすがに嫌だよね〜って話を出したけれども、どうなんだろ、本当かな?

と、そんなことを最近考え出していて、これが本題。

例えば、日がな1日穴を掘るのって、一人じゃ嫌かもしれないけど、友達10人くらいでワイワイ言いながら掘り進めるんなら、案外イヤじゃない気がしませんか。

子供の頃の「遊び」がまさにこれで、公園でカードゲームをしたところで実際なんの意味もないし、川でびしょびしょに濡れて遊んだところで、まあ意味はない。子供の発達にとってゴニョゴニョと無理やり意味づけをしてもいいけれど、まあ野暮だよね、と。そういうこっちゃないんだよね。

あるいは、例えば一人で穴を掘るのだとしても、砂遊びとして捉えたら、うちの4歳児はお腹が減って疲れてくるまで、少なくとも1〜2時間は夢中になって砂場で遊んでいられると思う。ひとりでも、意味を度外視でひたっすら没頭し続けてしまうことって、僕もたくさんあった気がする。

意味を付与し続ける毎日

誤解なきよう添えておくと、僕はこんな事を言いながら、目的重視のロジカル野郎だ。子どもたちの居場所をつくる企業で仕事をしてるのだけれど、それに感づいた子から初見でロボと言われた程度には、感性的なタイプとは程遠い人種だ。

自然とともに生きよう!とかちっとも思わないし、田舎よりは都会が好きだし、虫が苦手だ。妻が子どもたちと蝉取りをしているのを、そっと離れた場所から見てるしかない父親である。

そういう性分のあってか、僕はあらゆることに意味を付与する癖がついている。これはいいことでもある。あらゆる物事の良し悪しも、嬉しいも悲しいも、突き詰めれば意味の問題だ。同じ出来事でもどのように解釈するか次第で、人は前向きにもなれるし、どん底まで沈むことだってできる。

人生に起こる出来事に適切な解釈を与えながら生きることは、精神衛生上とっても大事なことだと思っている。そしてそれを家族や友人に活かすこともたまーにだけど、できている。いいことだ。

ただ、その方向に突き進み続けていると、哲学するしかなくなる。意味が付与するとは、すなわち「価値」を考えぬくことだ。評価することでもある。この出来事は僕にとってこんな意味があったんだ、という具合に。

「あのとき失敗したからこそ今の自分がある」といろんな成功者が喋っているけれど、別にそんな因果関係を示す方程式は自然界に存在しない。分岐路は刹那単位でいくつだってある。物理学的にはただの思いこみであるといってもいい。でも、その思い込みこそが、価値だし、意味だし、大事なのだ。

「こんにちは、はるですよ」

意味を付与することは、なるほどたしかに。人生において有用ではある。前向きになれるし、心が安定するし、また何かに頑張れるし。。。

ここでウチの4歳児の最近の癖「なんで?」パワーを使いたい。
なんで前向きになる必要があるのか?
なんで心が安定する必要があるのか?
なんでまた何かに頑張る必要があるのか?

くまが冬眠から目覚める。

もはやこの一連の出来事において、前向きとか、頑張るとか、そんなものはどこにもない。ただただ、くまが「生きている」だけだし、冬眠から目覚めただけだ。冬眠することに生態学的な意味はあったのかもしれない。でもそんなことはくま本人にとってはどうだっていいことだ。くまは冬眠から目覚めた。それだけだ。

そして、それを見ている僕らにとっても、くまは冬眠から目覚めた、それだけなのだ

蜂さんが花の蜜を吸っている。

もうそれ以上でもそれ以下でもない。僕はついつい、蜜に含まれる物質の成分とか、花の蜜を吸う頻度とか、気になっちゃうけれども、それを気にしない世界にこそ、ホンモノがある気がしてならない。

「こんにちは、はるですよ」とは、そういうことなのだ。

意味づけのない世界にこそホンモノがある

今年も「春」がきた。

残念ながら今のところ、僕にとってはまだ「年度末」である。意味の世界に生きている。あるいは「出会いや別れの季節」である。転職する人がいるなーとか、子供が進級するなーとか、ありきたりな感想にふけっている。

誤解されそうなので更に添えておくと、「もっと自然の景色に目を向けよう」という話とも、断じて違う。自然をたくさん見るほうがいい、と言っている時点で意味の世界にとらわれている。「自然が〜」と口走り始めた時点でもう意味の世界のドアをノックしている。

ただ「ある」こと。
ただ「ある」ことを見て、そのまんま受け入れること。

という表現が近いかもしれない。おっと、仏教か、これは。僕は仏教に目覚めただけなのか。詳しい人は教えてほしい。まあ、仏教である、と意味づけした時点でもう意味の世界のドアノブを回しているんだけども。

「意味を付けない」ことの意味を語ろうとしているので、ひたすらループし続けてどこにも着地しないような、意味のわからない記事を書いてしまった。でももしかしたらこれで、「あーアレね!」と伝わる人がいるだろうか。いたら嬉しいかもしれない。

意味づけのない世界にこそホンモノがある。というのが、多分僕の書きたかったことだ。

この話からの展開としては、「意味を考えず没頭するのって素敵よね」というような、陳腐って言ったらアレだけど、当たり前の話に聞こえてしまうかもしれないし、まあ、結局そういうところに帰結するのかもしれない。

熱狂するのって最高だし、僕は熱狂してる人が好きだから、「ホンモノ」と僕がここで呼びたいものは、もしかしたらそういう類の辺りにあるのかもしれない。

まずはとりあえず、「こんにちは、はるですよ」を感じてみたいと思う。3月は「年度末」ではない。「春」なのだ。くまが冬眠から目覚めるのを見に行こう。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!