小説「モモコ」第2章〜2日目〜 【7話】
モモコの質問が始まると、導師は文字通りに狐につままれたような顔をしていた。次第に表情を曇らせると、一瞬だけ、まるで汚い虫を見るような、暗い軽蔑の眼差しをモモコに向けたように見えたが、それは本当に一瞬だった。すぐににこやかな笑顔を繕うと、ウンウンと頷きながらモモコの話に耳を傾けてみせた。
「……といった点において、話の前後で矛盾が生じているわけです。またもっと言及するならば、サファイアの目覚め、という言葉に関して……」
「ちょっとあなた、導師様に失礼すぎます!」
会場の中央から怒号が上がった。振り返ると、遠目に一人の女が立ち上がっているのが確認できた。
「その通りだ。子どもがちょっと知識を入れたくらいで知ったような口を利くものじゃない!」
その隣に座っていた男も声をあげた。男に続くように、会場がざわめき出す。
これは大変なことになったとモモコに目をやると、質問前と同じように眉間にシワを寄せていた。彼らがなぜこんなに目くじらを立てるのか、理解しかねるといった様相だ。
「みなさん、お静かに、お静かに」
にこやかに頷きながら話を聞いていた導師が大きな声を上げた。マイクを使って大声を上げたものだから、声が割れてキーンという音が会場に響いた。
「モモコちゃんは純粋なのです。純粋だからこそ、わたしの話を鵜呑みにせず、思ったことをすぐに口にできるのです。これは素晴らしいことだと思いませんか?」
最初に怒号を上げた女がまだ何か言おうとしていたが、その前に導師が直接語りかけた。
「わたしのために声をあげてくれたんですね。その優しさがわたしはうれしい。どうもありがとう」
女性は先ほどまでの怒りの表情から打って変わって、もじもじと何度も頭を下げながら席についた。
静まった会場に向かって、導師が語り出した。
「モモコちゃんはまだ理解できていないだけなのです。じっくりと語り合い、感じてもらえればきっと、サファイアの目覚めに至ることができるでしょう。皆さん、モモコちゃんの純粋な心に、拍手を!」
会場がどっと湧いて、四百人の人間が拍手を始めた。先ほどまでモモコを散々非難していた人でさえ、今や感動したような表情で拍手を送っている。
僕はゾッと寒気を覚えた。人間というのは、こんなにも感情をころころ変えられるものだろうか。
だが、当のモモコは、その大喝采で何かを悟ったようだった。納得した表情で笑顔を振りまいた。
「この人たち、自分がないのね」
拍手が鳴り止んだところで、モモコは座っている僕の耳元でそっと囁いた。
僕は驚いて何も返せなかったが、モモコは十分に腹落ちしているようだった。
「ねえ、次の休憩で帰りたいわ。ルンバもそう考えていたんでしょ?」
「あ、ああ。そうしよう」
モモコがすごいのはこういうところだと僕は思った。こういった宗教にどっぷりはまってしまう人間が存在することを、数刻前までモモコはまったく知らなかった。だからレンの話に興味を持っていたし、導師の話した荒唐無稽な内容にも真摯に自分の疑問をぶつけたのだ。
けれども、結果としてモモコが目にしたのは、自分という自分を持たず、導師の言うことであれば何であっても呑み込んで、自分の感情にさえ嘘をついてしまう人間の姿だった。
おそらくモモコが出した結論はこうだろう。
『世界にはこういった人間が存在し、そして、わたしには一切共感できない』
モモコは、自分の頭脳がずば抜けて他人より優れていることを理解している。その自分でも理解できないことがあるとすれば、それは必ず論理的に立証できない不条理な事象だと考えているのだろう。だから、そういった理解できない事象対しては「理解不能」のラベルを即座に貼りつけることができるのだ。
「ねえ、ルンバ。わたし、いいアイデアを思いついたの」
休憩時間になり、会場から外に出てエレベーターに乗ったところで、モモコが話を始めた。
「SNSよ。例えばフェイスブック。それであなたの情報がもっとわかると思うの。記憶を取り戻す手がかりになると思うわ」
「えっ」
てっきりまだ碧玉会の話題かと思っていたので、僕はすぐにその意味を飲み込めなかった。
「ああ、僕の記憶の話ね」
ここに来るまではあんなにはしゃいでいたのに、もうすっかり興味をなくしてしまったようだ。
「2016年現在で、国内の20代のフェイスブック利用率はおよそ60パーセントらしいわ。あなたの世代だったら、きっと記憶をなくす前に、フェイスブックのアカウントくらい作っているんじゃないかと思うの」
モモコは、記憶を思い出すように目線を左上に向けながら言った。
「もしルンバのアカウントページを見ることができれば、どんな友達を交流があるのか、どんな場所に行ったことがあるのか、色々わかってくるわ。個人情報も登録していれば、誕生日や家族の情報もわかるはずよ。実名登録のフェイスブックならアカウントを探すのも無理じゃないと思うの」
「なるほどね。友達をフェイスブックで検索するのと同じように、自分自身をフェイスブックで検索するわけか」
「もちろん、ルンバのアカウントのログイン情報が手に入るのが一番よ。でも、まずは名前。名前さえわかればわたしでも検索できるわ」
そう言ってモモコは、自分のスマホからフェイスブックを開いた。慣れた手つきで人差し指を滑らせる。まだ手が小さいので、両手で操作した方が使いやすいようだ。
しばらくすると、スクロールする指を止めて、ふふふとモモコは笑った。
「やっぱり『ルンバ』で検索してもあなたは見つからないわね」
「そりゃあそうだよ。君が勝手につけた名前だからね」
僕も笑いながら答えた。ルンバと呼ばれるのにも、すっかり慣れてしまっている。
エレベーターを出ると、正面の壁に貼られている一枚のポスターに気がついた。碧玉会のポスターである。大きな題目が書かれ、その下に写真が添えられている。若い女性と初老の男が椅子に座って向かい合い、笑みを浮かべて語り合うといった具合だ。
《あなたはまだ本当のあなたを知らない。自分自身と向き合う傾聴セミナー》
コスモやサファイアといった言葉が一切使われていないセミナーの題目に、僕はもはや感心すら覚えた。
何も知らない人は、このポスターをカウンセリング系のセミナーと勘違いするだろう。そして、この題目を見て興味を示す人々は、彼らの信者となる可能性の高い、心に苦しみや悩みを抱えた人々なのだろう。何かに苦しむ人々をカウンセリングと称して集めてくるために、このポスター以外にもいろいろな手立てが用意されているのかもしれない。
モモコはこれをどう思うだろうか。
僕と同じように感心しながらも虫酸が走るような、そんな複雑な感情を抱くのだろうか。
それともまた「理解不能」のラベルを貼って、関心の外に放り投げるのだろうか。
「なあ、モモコ。このポスターをどう思う?」
僕は背後からついてきているはずのモモコに訊ねたが、返事がなかった。
「なあ、モモコ、聞いているのか?」
振り返ってあたりを見回しても、モモコの姿はどこにも見当たらなかった。
そうしてモモコは、忽然と姿を消した。
〜つづく〜
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