見出し画像

天の川(小説)

コツコツコツ。何かを叩くような音でタマキは目が覚めた。その音はまだ半分眠りの中にいた時にも聞こえていた気がする。何かがどうやら窓ガラスを叩いているようだ。
中学生の男子にしては簡素な部屋には初冬の柔らかな朝日が差し込んでいて、すでに日が昇っていることがタマキには分かった。昨晩から冷え込んでいる。タマキは音の正体を確認したい気持ちと、まだ布団の中にいたい気持ちを天秤にかけていた。意を決して布団から起き上がると、眠気は吹き飛んでしまった。一羽の小鳥が小さなくちばしで外から窓ガラスをコツコツとつついている。十五センチほどの体のほとんどは白い毛で覆われている。特徴的なのは、体のわりに長い尾が鮮やかな黄色をしていることだ。タマキがその愛らしい姿に見とれていると、小鳥と一瞬目があった。と思うと、どこかへ飛んでいって見えなくなってしまった。
振り返ると時計は七時を指していた。学校へ行くことを考えると途端に気が重たくなった。春に中学に進学してから、クラスメイトの中にタマキが仲良くなれる子はいなかった。勉強やスポーツが得意な子がいて、何の取り柄もない自分がひどく無価値に思えた。タマキは授業以外の時間を一人で本を読んでやり過ごすことになった。
着替えをして一階のリビングに降りると、父が朝食の支度をしていた。タマキは何も言わずに椅子に座り、さっと手を合わせる仕草だけして食べ始めた。母は早朝五時からスーパーのパートに出ている。
タマキは父を嫌っていた。父の方も用事がなければ話しかけることはなかったから、もう長い間ほとんど口をきいていない。父は昔は絵を描いて一応生活の糧にしていたらしいが、タマキが物心がつくかつかないかの頃にやめてしまったという話を母から聞いた。以来、父はほとんどの時間を家で過ごしている。家計は母が支えざるを得ず、早朝から遅くまで働き詰めだった。家は貧しく、それはすべて父のせいだとタマキは考えていた。
母がそんな父に愚痴一つこぼさず、優しく接していることにも不満を持っていた。年相応の気恥ずかしさも手伝って、タマキは母との関係もぎこちなくなっていた。
学校が終わり家に帰ると、タマキはスケッチブックを手に取り、家から数百メートルほど離れた小高い丘のある森まで歩いた。森の中には、タマキが抱きついても手と手が届かない立派な山桜の木がある。タマキはその根元に座って時間を過ごすのが日課だった。絵を描くことが多かったが、ただ何もせず過ごすこともあった。そこだけがタマキが安心できる場所だったのだ。タマキはその山桜と会話をすることもできた。
「おかえり」
山桜は優しく迎えてくれた。タマキは朝の小鳥の訪れが嬉しかったことを話した。
タマキが初めてここに来たのは小学校四年生になったばかりの頃だった。いじめられて泣いて帰ってきたタマキはあてもなく歩いた。足が向いた森の中に満開の桜の木を見つけた。それは鮮やかなピンクではなく、落ち着いた淡い色の花を咲かせていて、タマキの心を慰めてくれた。
「どうしたんだい?」
山桜から話しかけられた時、驚きよりもその声をどこかで聞いたことがあるような懐かしさの方が勝った。
「なんでもないよ」
タマキは答えた。学校であったことはどうでもよくなっていた。タマキはその山桜をゲンさんと呼ぶようになった。
ゲンさんは多くを語らず、いつもタマキの話をただ静かに聞いてくれた。ここで絵を描いていると、時々タマキは不思議な感覚を覚えた。まるでゲンさんの幹が自分の背中や頭のように感じ、持っている鉛筆が自分の指のように感じ、描いている木々や虫は自分を描いているかのように感じるのだ。
ゲンさんは小鳥の話をひとしきり聞いた後に話し始めた。
「君のお父さんも昔はよくここへ来たものだ」
「え? お父さんも?」
タマキは驚いた。
「ああ、君と同じように、そうやってよく絵を描いていたよ」
「そうなんだ……」
「君のお母さんも一緒に来たことがある。その時お母さんはとても落ち込んでいるようだった。お父さんはお母さんの肩を抱いて、長い間ただ黙って座っていた。それから何年かして君が生まれた」
「そうだったんだ……」
「まだ君がほんの小さかった頃、お父さんはよく君を膝に乗せて絵を描いた。葉っぱやどんぐりや動物なんかの絵だ。君は喜んだ。だがある時、お父さんは心に深い傷を負った。それから絵を描くのをやめてしまった。ここへも来なくなった」
「え……」
タマキはそれきり言葉を失った。ゲンさんも何も話さなかった。タマキはゲンさんにもたれかかり、目をつぶった。カラカラと落ち葉が飛ばされていく。それから、空が夕方の色に移り変わっていくのを眺めた。背中にゲンさんの暖かさを感じていた。
タマキは以前から気になっていたことを聞いてみた。
「ゲンさんは何歳なの?」
ゲンさんは笑って答えた。
「さぁ……もう自分の歳は忘れてしまったよ。でも、元々いたところは君と同じさ」
「元々いたところは同じ?」
タマキが首を傾げたその時だ。ゲンさんの上の方にとまっていたらしい小鳥が一羽飛んできて、タマキの前でくるくると回り始めた。今朝窓をつついていた長く黄色い尾を持つあの小鳥だ。
ゲンさんは言った。
「ついておいでって言ってるね」
小鳥は丘の上の方へ飛んでいってしまった。タマキは黄色い尾を目印に慌てて追いかける。小鳥は木から木へ素早く飛び移ると、くるっとタマキの方を振り返る。いくつかの坂を登り、森の奥へ奥へと入っていく。体力のないタマキはすぐに息が切れてしまった。吐く息は真っ白だ。最後の坂を登り切ると、目の前に池が現れ、タマキは息を呑んだ。池はプールほどの大きさで水面は凍っているようだ。その上に薄く積もった雪が木漏れ日を受けて輝いている。池の周りにはカラマツやモミなどが競い合って枝葉を伸ばしていて、木々の間からぽっかり穴が空いたように青空がのぞいていた。ここには音という音がまるで存在していなかった。
タマキは恐る恐る池へ近づいていった。霜柱がシャリシャリと音を立てる。池の畔まで来て、目をつぶって耳をそば立ててみる。やはり何一つ聞こえてこない。タマキは自分が存在しているのかも心配になり、体や顔を触ってみる。鼻の頭が冷たい。小鳥が飛んできて、タマキのジャンバーの肩にとまった。手で触れようとするとさっと飛び立ち、同時に同じ色をした仲間の小鳥たちが森の中から一斉に飛び立った。小鳥の群れは池の上空を楽しそうに飛び周っている。何十羽の鳴き声が森に響き渡る。それはタマキにいつか聴いた管弦楽アンサンブルを連想させた。
上から声が降ってきた。
「タマキくん、ようこそ」
すると、木々の間に丸く見えていた空が、プラネタリウムのように暗くなった。見たことのない光が、ゆったりと、時々うねりながら大きな輪を描いて流れている。いくつもの筋が重なり合うように流れていて、よく見ると流れの中から一つ、二つと小さな粒が分かれて飛び出している。またどこかからか一つ、二つと小さな粒が飛んできては流れの中に混じっていく。光はいくつもの色に変化しながら輝いている。タマキは描きたい衝動に駆られていた。
「あれは何?」 
タマキは聞いた。
「天を流れる川よ。すべての源」
小鳥は答えた。
「流れから粒になって別れてくる時、私たち鳥は翼を与えられる。そして、一粒一粒も特別な何かを与えられるのよ」

気がつくと、タマキはゲンさんの根元にもたれて座っていた。
「よく眠っていたね。さあ、お家へおかえり。お父さんとお母さんが心配する」
タマキは家までの道を駆けた。すっかり暗くなった空を時々見上げた。帰り着くと、上がった息を整えて、玄関のドアを開けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?