桐島さとし

*2008年から長野県伊那市で『豆腐工房まめや』というかまど炊きの豆腐屋をやってきまし…

桐島さとし

*2008年から長野県伊那市で『豆腐工房まめや』というかまど炊きの豆腐屋をやってきました。 *「桐島さとし」個人としては、執筆・お話会・対話の会などを行なっていきます。 〈食べものづくり × 学び〉 によって、生き方を自給する個人が分かち合い繋がれる場づくりを模索中です。

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最近の記事

ゲンコツの手(エッセイ)

僕の母は、とても幼い頃に這い這いで掘り炬燵に潜り込んでしまい、炭で火傷をして左手の指を失ったそうだ。それでも、指のないゲンコツの手で、車の運転でも家事でも、日常生活はほぼ問題なくこなしてしまうので、母がれっきとした手帳を持つ身体障害者だということは、つい忘れてしまいそうになる。明るく世話焼きな性格で、人望が厚く、友達が多い方ではないかと思う。 子供の頃は、指がないことでずいぶんいじめられたらしい。祖母から聞いた。母がいじめられると、祖母がいじめっ子たちを叱ったという昔話をよく

    • 天の川(小説)

      コツコツコツ。何かを叩くような音でタマキは目が覚めた。その音はまだ半分眠りの中にいた時にも聞こえていた気がする。何かがどうやら窓ガラスを叩いているようだ。 中学生の男子にしては簡素な部屋には初冬の柔らかな朝日が差し込んでいて、すでに日が昇っていることがタマキには分かった。昨晩から冷え込んでいる。タマキは音の正体を確認したい気持ちと、まだ布団の中にいたい気持ちを天秤にかけていた。意を決して布団から起き上がると、眠気は吹き飛んでしまった。一羽の小鳥が小さなくちばしで外から窓ガラス

      • 父の手

        よく晴れた六月の日曜日、僕は妻と娘とともに、介護施設から退所したばかりの父を迎えて、僕が幼少時代を過ごした諏訪へ出かけた。 父と会うのは一年ぶりだった。 一年前、父は徘徊を繰り返した。夕方になると家を飛び出して黙々と歩いた。心配で、僕や母はよく街中を探し歩いた。警察のお世話になることもあった。 「きちんと家で見ていてください」 世間は理解してくれなかった。力が強く、とても止められるものではない。止めようとすると猛烈に怒り暴力をふるう父に、母の心は限界を迎えていた。 介護施設に

        • 目覚め

          人はなかなか自分のことが分からないものだと思う。自分の中に相反するものが常に同居しているように思える。自分の心なのに、白かもしれないし黒かもしれない、と言えたりする。ちょうどオセロの盤上のようだ。 2014年が明けたころ、僕は自分で創業したかまど炊きの豆腐屋を続けたかったし、続けたくなかった。毎日そのことを考えていたが、毎日答えが変わった。 ようやく最後に結論を出す決め手になったのは、ある夢だった。 僕は豆腐を作っている。 いつもの工場で、いつも通りの手順だ。しかし、肝心

        ゲンコツの手(エッセイ)

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        • エッセイ
          4本
        • 小説
          1本

        記事

          床板の記憶

          音楽や食べ物によって特定の記憶を思い出すことが誰しもあると思う。場所もまたそんなスイッチになることがある。決まった場所に行くと、特定の記憶の時間にふっと飛んでしまうようなことが。 あらゆる喜怒哀楽が染み込み居心地を良くも悪くもしている僕らの手作りの販売店舗も、やはりそんな場所だ。 元々農協の支所だったその建物は、すだれで隠しているメガネ顔のマスオさんのシールに、かろうじて当時の面影を残している。 彼が僕の弟子になりたいと言ってきたのは、2010年の夏のことだった。 大学を出

          床板の記憶

          怒り、アンガーマネジメントについて

          最近、怒っている人と話をしているので、怒りという感情について考えました。 怒りという感情はとても厄介で、なかなか自分でコントロールするのが難しいという方も多いのではないかと想像します。 僕もかつてはそのことで悩みました。怒りをコントロールできない自分が嫌で仕方なく、怖いとさえ思っていました。 怒りとうまく付き合えなかった頃は、怒りが沸いてきたときに、それを抑えつけようとしていました。 しかし、それは消えたわけではないので、また別のところで歪みを生んだり、膨れ上がって暴発し

          怒り、アンガーマネジメントについて

          死を傍らに置いて天寿を全うする

          新しい年が明けました。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 昨年は、同じ年に、赤ん坊が生まれ、父親が亡くなり、否が応でも命についてより深く考える機会になりました。 父が亡くなってからというもの、僕は死をより身近に意識するようになりました。 誰にでも、いつでも、死は訪れる可能性がある。 当たり前のことですが、ついつい忘れがちになってしまいます。 しかし、「いつ死ぬか分からない」ということを意識するのとしないのでは、生き方にずいぶん違いが生まれるような気がします。 今

          死を傍らに置いて天寿を全うする

          父が亡くなり、半月が経ちました。 僕は家を出てからもう長いので、自分の生活が大きく変わったわけではないけれど、大きな存在がいなくなった、という喪失感が続いています。 思えば、遺伝的にも、後天的にも、自分は父の影響を強く受けているのだなぁと改めて思い知ります。 生身の肉体を伴った父という人間は亡くなりましたが、そこに宿っていた魂は、また天に還ったのだと思います。 父の死を通じて、このように現世の命には終わりがある、ということは、ありがたいことだと感じました。 歳を重ねて老

          ま、いっか。

          失敗はするもの。 迷惑はかけるもの。 忘れ物はするもの。 時間には遅れるもの。 人にはつい怒ってしまうもの。 おいしいものは食べてしまうもの。 お酒は飲みすぎてしまうもの。 女の子には弱いもの。 片付けはできないもの。 お金は貯まらないもの。 人生はうまくいかないもの。 それでも僕は今日も生きている。 人を憎らしく思ってしまう日もあれば、 自分はなんてダメな奴だと自己嫌悪の渦に飲み込まれてしまう日もある。 そんな自分も愛おしい自分。 どんな自分も

          ま、いっか。

          猫や赤ちゃんのように

          我が家には、1匹の猫と、1人の赤ちゃんがいます。 両者に共通しているのは、予定がないこと。(当たり前だけど 笑) 二人とも、特別なことは何もせず、寝たり、ご飯をもらったり(赤ちゃんはおっぱいだけど)、おしっこをしたり、うんちをしたり、たまに怒ったり、喜んだりして、一日を過ごしています。 けれど、誰にも文句を言われないばかりか、かわいがられて、それでいて人にたくさんの幸せを与えてくれています。 僕は、生まれ変わるなら飼い猫になりたいものだと、ひそかに願っています(笑) 猫は

          猫や赤ちゃんのように

          善性に基づいた生き方

          今年に入って、お金に頼らない生き方を考えてきています。 お金に頼らないのであれば、何に頼るのかと言ったら、人間関係ではないかな、と思っていました。 それを僕は「信頼関係」と考えてきました。 でも、ここのところ、信頼関係よりも、人の善性の方が大事かな、と思えてきました。 これを愛と呼ぶ人もいると思いますが、僕はどうも愛という言葉は今はしっくりこないので、ひとまず「善性」としておきたいと思います。 資本主義社会では、あらゆる権利をお金にしています。 お金というのは、考えてみれ

          善性に基づいた生き方

          呼吸ということ

          先月、子供が産まれてから、僕が連れ合いの代役でパンをを焼いています。 とてもとても難しいですが、おもしろいです。 これまでやってきて、豆腐づくりと通じるものを感じてきました。 それは、食べ物を作るのにあたって、他の生き物や自然の力との「呼吸」です。 呼吸というのはリズムだと思います。 自分がいて、他者がいる。 他者というのは、人である場合もあると思いますが、僕らの現場では、食材や火や水だったりします。 その他者とのリズムを合わせること。 それが呼吸を合わせるという

          呼吸ということ

          新たな命の誕生を迎えて思うこと

          先日、おかげさまで無事に子供が産まれました。 「天使のような寝顔」という表現がぴったりの顔ですやすや寝ています。 命がお母さんのお腹に宿るという現象はまさに神秘で、僕には天から贈り物としか思えません。 どの子もまさに天からのお使いなのだと思います。 そして、赤ちゃんを見ていると、みんな最初からすべてが備わって生まれてくるのでないかと感じます。 備わっているんだけれど、開花していないというか。 あくまでこれは感覚的なことなのですが、その開花していない自分の芽を一つ一つ見つ

          新たな命の誕生を迎えて思うこと

          コミュニティ型の豆腐屋/パン屋にしたい

          先日「風の時代を生きるために」のグループでお話させていただいた時に、僕の思い描いているものを、どう言葉にしたらいいか考えているうちに、このことに思い当たった。 「コミュニティ型の豆腐屋でありパン屋」。 それかなぁ、と。 コミュニティという言葉自体は、正直まだしっくりきていない。 他にもっと適切な言葉が見つかれば置き換えたいけれど、今のところ見つからないので、とりあえず「コミュニティ」としておこうと思う。 コミュニティとは、国とはまったく関係のない人の集まりだと思っている

          コミュニティ型の豆腐屋/パン屋にしたい

          心の中の火を見つめる

          思い返してみれば、僕はずっと生きづらさを抱えてきた。 それが何に起因するのかは、はっきりしない。 中学校時代から人間関係には悩んできた。 仲の良かった友達から、言うことなすことをバカにされたり、けなされたりした経験は、僕の心の奥底に深い傷を残したようだ。 おかげで、かどうか分からないけれど、人から何かを指摘されると、まるで人格を否定されているかのように感じる強迫観念があった。 あった、というか、今でもないわけではない。 あるいは、複数人で会話をすることは苦手だ。 一対一の

          心の中の火を見つめる

          余裕は空っぽの片手から

          先日、僕の豆腐づくりへの愛について熱く書きました(笑) 生産者と言われる人たち(広く言えば、ものづくりをする人だけでなく、芸術家もサービスを提供する人も、色んな人が生産者だと思う)は、なぜそれをするのかと言えば、「好きだから」に集約されるのではないかと思う。 作ることは楽しいのです。 けれど、その好きなことを商売にしてやっていくうちに、不幸なことにとても苦しくなっていくことがある。 もちろん好きなことをやっていても苦しいことは必ずあるけれど、それが好きではなくなってしまう

          余裕は空っぽの片手から